1434 山ヶ岬=奥尻郡奥尻町字赤石(北海道)通りすがりに奥尻島の遺跡を町のサイトからちょっと拾ってみる… [岬めぐり]
大昔の移動手段で、比較的手軽でいちばん効率的で威力を発揮したのは、舟であったろう。したがって、数千年も前から奥尻島がオホーツク文化圏の西と南の端であり、かつまた本州の文化圏との交流があったというのは、決して突飛なことでもありえないことでもない。
そういう交流の場では、各種のことばが入り混じって使われ、人々はわりと自由に行き来をしていたのだろう。島のことばには、島の人が「むかい」という道南西部沿岸のことばが主になっていて、それに津軽弁が多く混在してくるのだという。
それは、奥尻町のサイトの観光ページではなく、“文化・教育”のページから知ったのだが、そこにはほかにもいろいろ興味深いことが書かれていた。
そんななかから、いくつかを拾いだしてみよう。
まず、「青苗貝塚」について。
そもそも「貝塚」って何でしょうか?
「貝塚」とは、昔の人が食べた貝をはじめとする様々な食べかすを捨てた「ゴミ捨て場」だと、一般的に多くの方に思われています。
でも、「青苗貝塚」は、青苗市街地ならばどこからでも望むことができる 台地(高台)に位置しています。
本当に「ゴミ捨て場」なら、どこからでも望めるそんなに高い場所に、しかもそんな目立つ場所に設置するでしょうか。
本当に「貝塚」=「ゴミ捨て場」なのか疑問です。
実は「貝塚」は「ゴミ捨て場」ではなく、昔の人が食べ終えたもの、道具なら使い終えたものをほおむる「墓地」のような場所だったのです。
昔の人たちは、貝をはじめとする生き物や道具でさえ、人間と同じように「こころ」を持つと考えられ、信じられていました。
そうした生き物や道具をほおむり、とむらうのが「貝塚」だったのです。
「貝塚」を「貝捨て場」と言わずに、「貝塚」と言っているのは、こうした意味があるからなのです。
普通“貝塚”といえば大森貝塚などをすぐ連想してしまうのだが、この貝塚はずっと新しく、飛鳥時代から鎌倉時代にかけて北海道で栄えた、1000年くらい前の擦文文化のものだという。同時代、平安時代の記録によると、北の海の特産品として干しアワビとアシカの毛皮が挙げられているというが、まさしくこの貝塚からはアワビの貝殻が多く、また発掘された動物の骨のうちではアシカの骨が約9割以上に達するという。
そんな特徴のある貝塚の場所は、やはり青苗砂丘遺跡のなかではないかと思われるのだが、どこをみてもその遺跡も貝塚も場所を明確に示した説明がないので、結局わからないままで終わった。
奥尻の北海道先史時代を彩る擦文文化の担い手は、縄文人の子孫であるとともに、アイヌ民族の祖先であった。そう考えても、差し支えないのだろうか。
また、青苗遺跡の東側の墓地からは、ガラス玉、水晶玉、水晶製切子玉、石製玉などとともに、大きな勾玉も発見されている。頭部に刻文が刻まれた丁字頭勾玉は緑色のヒスイで、その原石は新潟県糸魚川産であることがわかっている。おそらくは、古墳時代に近畿地方で使用された遺物が、古墳時代後期以降にここまで流れてきたものではないか。
・ChinchikoPapa さんからのコメント:
古墳時代の初期に栄えた、ヌナカワ女王のいた「越国」独自のヒスイ勾玉ですね。ヌナカワ女王は、出土物から「出雲」と親和性が高かったようで(神話のメタファーからすると同盟関係?)、近畿のヤマト政権が成立する以前か、あるいは成立後であっても関係が希薄か、あるいは出雲との関係から侵入勢力に対しては敵対していると思います。
奥尻空港の滑走路拡幅工事にともなって発見された砥石遺跡では、4,500年くらい前の北海道最古と思われる集団墓地(600基を超える)も発見されている。このことからも、本州の人間が本州の感覚で想像するより、はるかに高度で複雑な社会生活を営む集団が、この島にも住んでいたことがわかる。
さてさて、山ヶ岬もどうということのない緩い道路のカーブで、海側には若干の岩場が突き出ている。長い長浜海岸の北寄りに位置するが、長浜という字名はなく、小カカリ石付近から北は全部、赤石という字名になっている。
バス停名は「山ヶ崎」となっている。そういえば、前項の「弥右衛門岬」も、明治の修学旅行の記録では「崎」になっていた。「岬」を「さき」と読み、その読みに「崎」の字を当てるようになったのだろうか。
それとも、北海道では「崎」より「岬」のほうが多いので、同調圧力が働いて、「崎」が「岬」になったのだろうか。
▼国土地理院 「地理院地図」
42度8分9.98秒 139度31分9.04秒
北海道地方(2016/09/04 訪問)
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