1433 弥右衛門岬=奥尻郡奥尻町字松江(北海道)約8,000年前から人が暮らしていた砂丘の面影もなく弥右衛門さんも不明 [岬めぐり]
また人の名前の岬である。清次郎さんは書くことも出てきてなんとかなったが、弥右衛門さんについてはまったくなにもわからず、完全にお手上げ。
で、その前に…。
奥尻島の岬は、北から逆時計回りに回っているが、実際には島についてからバスで神威脇まで行き、青苗までまた引き返してそこで一泊した。青苗岬付近の集落は津波で全滅し、移転を余儀なくされているので、現在の青苗集落は南北に伸びる港の周辺と少し高くなっている港の西側になる。
新しくできたような家々が並ぶ町並みのなかにある、素泊まり専門の宿に泊まり、翌日の早朝に町を歩いて群来岬や青苗岬へ行った。津波館は開館までに時間がありすぎ、バスの時間と合わないので、見学はできず。
漁港には、避難設備のつもりかなにかのような大きなテラスが設けられているが、工事中とかで入ることができない。そこから港越しに見ると弥右衛門岬の端もちょっとだけ見える。港の北の端には、地図でみると砂浜も残っているが、青苗の北部は昔から砂丘が発達していた場所らしい。“青苗砂丘遺跡”というのもあるようだし、その証言記録が見つかった。
奥尻町教育委員会が発行している「ふるさと奥尻通信」(平成28年2月29日)によると、1901(明治34)年に奥尻島の対岸、の久遠小学校(せたな町大成区)の奥尻島修学旅行を紹介している。
なんと、明治のこの小学校の修学旅行はすごい。久遠小学校は奥尻島を徒歩で全周するという計画を立て、実行している。それはまず、久遠港から汽船で昼過ぎに釣懸(現奥尻)に到着、上陸後青苗へ向けて島の東海岸を徒歩で南下している。その記録の一部はこう言う。
赤石、長浜海岸を通過して、薬師(現松江)へ。今のような道路もなく、原始林を抜ける様は、あたかもジャングルを行軍するかのようだったでしょう。途中、大かかり石(海上に顔を出した岩)の前で休憩、弥右衛門崎を越えて初松前の集落に至ります。ここから南端の青苗までは砂丘が続き、歩きにくい中ようやく青苗小に到着して厨川校長以下、村民らの盛大な歓迎を受けました。初日の行程は大変過酷であり、就寝した頃には夜明け前の3時になっていたのでした。(北海道教育雑誌第102号所収)
ここでは“弥右衛門崎”と言っており、初松前というのが、弥右衛門岬の南西に位置する集落で、港から見える海岸線がそこである。「ここから南端の青苗までは砂丘が続き、歩きにくい中…」というのだから道もなく広い砂丘が広がっていたことがわかる。
なるほど、砂丘かあ。南に鳥のくちばしのように飛び出たところとその北に続く丘が、全部砂丘だったのは、そう大昔のことでもないらしい。
だが、ずっとずっと大昔から、この砂丘の端の上に、住居を構えてきた人間がいた。
「文化財オンライン」の「青苗砂丘遺跡」の項は、以下のように記している。
青苗砂丘遺跡は、発掘調査によりオホーツク文化期の住居跡や墓が確認されたことから、これまで、主にサハリン島南部や道北・道東沿岸部に分布するとされていたオホーツク文化が日本海を南下して奥尻島まで及んでいたことを示す貴重な遺跡です。また、土師器や碧玉製管玉など本州から運ばれた遺物も出土していることから、この遺跡において北方と南方の文化が交流していたこともわかります。
時代は約8,000年前(縄文時代初期)の遺跡だが、本州本土でいう縄文時代とはちょっと異なり、オホーツク文化圏の南限・西限にあたる。
土器や石器はもちろん、他に類を見ない石を組んだ炉の跡が発見されている。氷河期が終わって、やっと人間の活動も盛んなになり始めようかという時代、砂丘の住居に炉をつくり、火をおこしてそれを絶やさずに、営みを続けけてきた人々が偲ばれるが、その遺跡の位置は、記録からも地図からも特定できなかった。
ただ、道路がカーブするだけの弥右衛門岬から、北に向かって次の山ヶ岬までは6.5キロの長い海岸線が続く。その名も長浜というこの一帯は、御影石(花崗岩)がごろごろとしていて、みかげ石海岸とも呼ばれてきた。
そのうちの大きなのが海中から飛び出ていて、カカリ石という名もついて、地図にも明記されている。
▼国土地理院 「地理院地図」
42度4分59.72秒 139度29分45.00秒
北海道地方(2016/09/04 訪問)
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