1432 青苗岬=奥尻郡奥尻町字青苗(北海道)島最南端の岬は広い慰霊と祈りと記念の空間になっていた [岬めぐり]
北海道南西沖地震は奥尻地震とも呼ばれるほど、島の被害は大きかったが、なかでもこの海に突き出た低地の青苗地区は壊滅的打撃を受けている。
島の犠牲者の半数は青苗の人々で、津波で何度か流されたうえに火災まで起こって、流されなかった家は燃えた。
1993(平成5)年7月12日の夜に起こったマグニチュード7.8の地震と、藻内西方沖約15キロの海底で発生した地すべりによる津波のリアルタイム記録は、ほとんど残されていない。震度は6の烈震だったと“推定”されているのは、島には地震計がなかったためであるが、日本海側で発生した地震としては、近代で最大規模だったとされる。
「時空翔」の中央にある黒御影石のモニュメントは、中央上部にくぼみがある。7月12日の夕刻に海の震源地側に向かって立てば、このくぼみの中に沈んでいく夕日を見ることができるのだという。この慰霊の場には、天皇陛下の御製や奥尻島生まれの詩人 麻生直子の詩が刻まれた碑があり、それを半分囲むように犠牲者の名を記した曲面の壁が取り巻いている。
ひたすら国民の安寧を祈ることをもって本分としている天皇皇后両陛下は、ことあるごとに積極的に機会をつくっては被災地を訪問して人々を慰め励まし、また(戦争を含む)犠牲者の慰霊の旅を続けている。祈りそして歌を詠むという、古来の天皇の役割に徹しようとする意志も感じられるが、ここで石に刻まれていたのはこういう歌だった。
壊れたる 建物の散る 島の浜 物焼く煙 立ちて悲しき
御製の碑とモニュメントを挟んで反対側にある、麻生直子「憶えていてください」という詩碑の一節には、こうあった。
最初の人が板切れとともにこの磯に立ち
銀色の魚を釣り
野菜や穀物を育て
ひと組の男女が結ばれ
父となり母となり
ながい寒さから幼な子まもり
働くことをいとわずに築いてきた村や町
くらしの糧をわけあってきた
海辺の家族の
その歳月を置き捨てずにいてください
被災直後の写真では、北の丘の端で折れて倒れていた赤白だんだらの四角い青苗岬灯台は、ちゃんと立ち直っていたが、そこから南一帯の低地にあった青苗集落は、全面的に移転し、今では「時空翔」の慰霊施設と、震災から8年後の2001年にオープンした奥尻島津波館と、広い空間をもつ公園になっている。
青苗岬は、その広い空間のさらに南で、低い陸地が細くすぼんで終わる全体を指しているともとれるが、厳密にはその南端であろう。
そこには、一本の高い白い柱が建っている。その高さは16.7メートルあるという。“徳洋記念碑”という名のそれは、1931(昭和6)年に建立され、その後の起こった二度の大震災にも耐えて残った。「洋々美徳」と記されたこの記念碑は、岬めぐりではときどき遭遇する海難救助に関するものだった。
その海難事故があったのは1880(明治13)年だから、これもずいぶんたってから半世紀後に建てられている。青苗沖で座礁したイギリスの中国艦隊旗艦であったアイアン・デューク号の事故では、訓練のため乗艦していた有栖川宮威仁親王が青苗に上陸、島民や他国軍艦と協力して救助活動にあたった。
“有栖川宮威仁親王の遺徳と国境を越えた救助活動の美徳を讃えるものです”、と説明板はいうのだが、昭和6年といえば満州事変が起こり国際社会で日本は孤立を深め、北海道などでは大凶作で娘の身売りが急増していた。なぜ、そんなときにこの碑は建てられたのだろうか、という疑問が湧いてくる。
その青苗沖の英軍艦座礁の場所は、いったいどこだろうか。
青苗岬の南方4キロ付近の海上には、室津島・森磯島と沖ノハッピという岩礁が地理院地図にはある。その周辺には多数の岩礁が描かれているが、それ以外にも軍艦が座礁しそうな暗礁が隠れているのだろうか。
室津島は、元清次郎の僧侶が断食座禅を組んだと伝説がいう岩島だが、ズームで見ると左手の島に灯台と祠があるのがわかる。
▼国土地理院 「地理院地図」
42度3分8.01秒 139度27分1.43秒
北海道地方(2016/09/04 訪問)
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