1419 神子崎=三方上中郡若狭町神子(福井県)神功皇后の影を残す半島の陸の孤島だった浜辺の集落と岬の名は“みこ” [岬めぐり]
なぜ常神で3時間も時間を潰さねばならなくなったかといえば、ひとつには常神岬が見えるところまで登ることができなかったので、時間が余ったというだけではなく、計画で予定していたバスの時刻が変更でなくなっていて、夕方の最終便まで待たなけばならなかったからだ。
すでにこのシリーズ冒頭から告白しているように、誤算続きの連続だったなかでは、“ネット上に流れているバス時刻表が変わっていた”、という要因によるものが多い。とくにこの半島を往復するにあたっては、4月からダイヤ改正があったというが、6月に調べた時点では古い時刻表しか流れていなかった。おかげで、わざわざ休日にのみ運転されるという10時のバスに乗り、15時のバスで帰ろうという日程にして計画してきたのが、まるで無意味になってしまった。このため往路で2時間、復路で3時間とロスタイムを生じてしまったわけだ。
まあ、この日は1日かけて常神半島を往復するつもりだったので、2時間や3時間待っても…。(まけおしみ。でもそれくらい余裕をみた計画だったから、狂いが生じてもなんとか後に影響しなくてよかったよ、ほんとに。)
“神”の字があちこちに散らばるこの付近は、神功皇后が三韓征伐遠征の途中で風待ちをしたという言い伝えによるものだろうが、縄文遺跡もあり、常神のひとつ南の入江の奥にある常神社の祭神も神功皇后である。この神社も御神島(おんがみじま)にあったものが当地に移されたとされている。
戦前戦中には実在の歴代天皇に数えられていた神功皇后も、現在では神話とする考え方が主流のようだが、彼女が応神天皇の母であるという点は重要である。なぜなら、応神天皇こそは、実在が確かめられる最初の天皇(井上光貞などによる)というからだ。在位41年でその後の天皇家の系譜を確かなものにした応神の母本人が、“巫女”だったのではないかとの説もあり、さらにそれが“卑弥呼”で、いやそうではなくその後の“台与”だ…とか。
このへんになると新羅人渡来説なども出てきて、想像の幅はどんどん膨らむ。想像は必要だが、確かなことがわからないので、門外漢のシロウトとしてはあまり深入りはできない。
常神の南にある集落は、神子(みこ)、小川、遊子、塩坂越(しゃくし)と点々と半島西海岸に並ぶが、その間隔は開いていて、山々に遮られている。若狭町営バスの三方線が走る道路は、その山の尾根に沿って迂回したり、トンネルで抜けたりする。
神子の集落へ出るには、北からだと神子崎の高いところの尾根を巻いて下り、南からだと920メートルの神子トンネルを抜ける。トンネルを抜けたところにあるその名も「岬小学校」は、常神半島唯一の学校らしい。
神子崎は、神子集落の北西側に張り出した岬である。道路はその上70メートルくらいのところをくねくねと巻いている。
神子の海岸も、砂浜にはあまり恵まれてはいないように見受けられるが、それでも民宿の看板が目立ち、海岸道路の下には、色とりどりの三角の小旗を数珠つなぎにしたロープが張られている。どうやらこれは、地元新聞社などが提携した海水浴場を意味しているようだ。
1972(昭和47)年に県道216号線の拡幅工事が終わって、ほぼ現在に近いような形で全通するようになるまでは、まったくの陸の孤島であったこの付近の浜辺の集落は、大きな意味と役割を持っていたことは留意しておくべきだろう。その意味も役割も、道路が通ってからは急速に薄れていくことになったのではないだろうか。
神子桜と呼ばれるヤマザクラが覆う入江を囲む山の下には、この地で古くから続く刀祢(律令制の官人)の大音(おおと)家で、先祖代々守り伝えられてきた『大音文書』という、県の有形文化財になっている史料があるという。それは、800年におよぶ期間の文書334点、冊子110点からなり、桐でできた背負い櫃(ひつ)に収められているという。
神子も海水浴ばかりでなく、釣り客が多いので、民宿もたくさんあるのだろう。その釣り人の間では、ちょっと有名らしい岩島が、神子の南西4.8キロの海上に浮かぶ千島である。
釣り人たちは、この無人島の岩島を“千島群礁”と呼んでいる。
常神半島の岬は、これより南にはもうない。
▼国土地理院 「地理院地図」
35度37分28.37秒 135度49分28.86秒
北越地方(2016/07/17 訪問)
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