1422 江差津花岬=江差町字姥神町(北海道)急きょ計画を変更せざるを得なくなって思いがけなく再びの江差 [岬めぐり]

はからずもやってくることになった江差は、三度目。といっても、そのうちの一度はバスで通過しただけだから、泊まるのは二度目。前に泊まったのと同じ「ホテル寺子屋」にお世話になった。今回は、行きで泊まって、帰りでも時間待ちをした。

前の江差では、かもめ島の「155 クズレ鼻」の項目のほか、「154 大潤ノ崎」、「156 相泊岬」の3項目を書いていたので合わせて参照願いたい。

「ホテル寺子屋」は、奥尻島へ行くフェリー乗り場にいちばん近いところというので選んだこともあるが、なにしろ、このホテルもそうだがその前にある通り(姥神津花通り)が気に入っている。横山家のような古い建物もあるが、昔の家並みを再現したというわけではない。平成に入ってから整備を始めた“いにしえ街道”という名もある通りは、ニシンで栄えた200年前の建物を残す横山家や中村家など古い建物を保存したり、新しく建てる場合もそれぞれレトロ感を前面に押し出したつくり(なんとなく明治の雰囲気)で統一されている。

しかも、この通りには電柱が一本もない。管理用のボックスは歩道にあるが、電柱は地下に埋設されているので、道がきれいなのだ。

帰りには、ここでずいぶんバスを待ったので、前に行けなかった追分会館とニシンそばの店をマークしてみたが、ニシンそばのほうは開店前でやはりタイミングが合わなかった。
誤解を恐れずに言えば、江差は過去の遺産で成り立っているような街だ。そのひとつがニシンであり、江差追分だというのは、ちょっと独断と偏見に過ぎよう。ホテルのある位置は、姥神大神宮の近くで、その鳥居の前から海岸に向けて下ったところには、大きな山車(やま)が収められた倉庫がある。

帰りには時間があったので、追分会館に行ってみると、この姥神さんの祭りと山車の展示室があった。

ここでビデオを見ていると、いかにもニシン漁で繁栄を極めたかつての名残りが、この祭りに集約されて残っているような気がするのだ。この祭りのときには、故郷を離れていた人も続々と戻ってくるので、町の人口が5倍にも膨れ上がるという。

13もある山車も、そうでなくては引く人も手も足りまい。山車に鎮座するキャラクターもばらばらで、それがまたおもしろい。なかには武田菱を掲げた山もあるのは、北海道へ和人が渡る初期の段階で、武田氏がこの付近(上ノ国)にやってきたという歴史的事実を反映したものだろう。

「江差の五月は江戸にもない」と謳われた往時の繁栄を、今に伝える祭りは大きな遺産であり、それをまた後世に伝え残していこうという地元の情熱が感じられてうれしくなる。

会館の2階には、江差追分など追分資料館もある。“正調江差追分”というのを聞いてみたが、とても簡単にはマネできそうもない。正調はとても嫋嫋(じょうじょう)として、その微妙な節回しと発声がなんともいえない。
「追分」そのものは、なにも江差に限った歌ではない。主に北前船の乗員などによって各地へ伝播したとされ、日本海側のあちこちに、それぞれある。
そのなかで、江差追分だけは毎年全国大会(熟年の部と少年の部まである)が開かれるほどの全国区なのは、どうしてなのだろう。館内には追分会という看板を掲げた部屋もあって、江差追分を守る町民の活動拠点になっているようだった。

この項はあえて、「1422 津花岬」としてみた。それは、どこかで「津花岬」の表示を見かけたからである。
「津花町」という町名は地図にもあるが、その岬名は載っていない。

鴎島と市街地を結んでいる埋め立て地の、ちょうど開陽丸のある南半分と、国道228号線が90度に折れ曲がる町の南側が津花町なので、ここにかつては津花岬があり、それは埋め立てで消えてしまったのではないか、とも考えられる。
埋め立て地の北側半分は姥神町で、ここと追分会館の中間にフェリーの乗り場はある。
「五勝手屋羊羹」は前にも買ったが、あのときにはJR江差線がまだ走っていたのだ。

▼国土地理院 「地理院地図」
41度52分0.06秒 140度7分27.35秒




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