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1411 明神崎=敦賀市明神町(福井県)潮染むるますほの小貝拾ふとて…色ヶ浜には大勢の人がやってくる [岬めぐり]

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 色ヶ浜にバスが着くと、ほかの乗客はみんな降りてしまう。道路の周辺は駐車場もいっぱいで、もうたくさんの人がやってきている。色ヶ浜の海岸にも多少の砂浜はあるのだが、ここの海水浴のみんなのネライは、湾と入江の関係で海流が砂を集めて、沖に頼りなげに浮かんでいる水島である。そこまで、渡船で運んでもらうのだ。
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 明神崎は水島にではなく、その北から伸びてきた細く長い岬の端についた名であろう。が、灯台は水島の南端の方についているらしい。
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 水島の白い砂の上には、たくさんの海水浴客がいる。海岸の道路からは900メートルくらい離れているが、もうぎっしり近く人が乗っかっているようだ。地図でみると、島の周囲には浅い砂浜というか浅瀬が広くあるようで、これではあんまり本来の「泳ぐ」には向いてなさそうだ。逆に見れば、ポチャポチャするだけの水浴びには、かえって都合がいい。
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 これだけ人が大勢いると、“無人島感覚”はちょっと望めないだろうが、ほかの海岸にはない一興はあるので、それが集客力になっているのだろう。
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 色ヶ浜も古くから集落があったものか、あるいは自然の景観だけがあったものか、西行が「潮染むる ますほの小貝拾ふとて 色の浜とは いふにやあるらん」と詠んだ地がここなのだという。
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 松尾芭蕉が『奥の細道』の旅で敦賀を訪れたとき、わざわざここへやってきているのだ。ご苦労なことにここまで歩いてくるとは…と一瞬思ったが、歩くわけないよね。西行がどのようにしてきたかは知らないが、そりゃそうだね。舟ですよ舟。奥深い敦賀湾は波も静かなので、船ではなく、舟で充分だったろう。
 芭蕉の旅の目的は、古来からの歌枕の地を訪ねることでもあったので、敦賀にくれば西行にならって色ヶ浜まで足を伸ばす…舟を出すことは当然なのであった。
 それは、1689(元禄2)年の旧暦8月というから、現在の暦では9月も終わり頃である。

 十六日、空霽たれば、ますほの小貝ひろはんと種の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某といふもの、破籠・小竹筒などこまやかにしたためさせ、しもべあまた舟にとりのせて、追風時のまに吹き着きぬ。浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。ここに茶を飲、酒をあたためて、夕ぐれのさびしさ感に堪たり。
   さびしさや 須磨にかちたる 浜の秋
   波の間や 小貝にまじる 萩の塵
 その日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。

 色ヶ浜は“種の浜”とい呼ばれていたのか。芭蕉の筆はいかにも“上から目線”でそっけないが、“天屋何某といふもの”が、これだけいたれりつくせりのサービスに務めたのは、もちろん豪商の余裕とプライドがそうさせたのだろうが、先行していた曽良が事前に手を回していたからだろう。
 秋の夕暮れのさびしさを、『源氏物語』の「須磨」をもってきたのは、今の世にもなるほどと思わせるが、“ますほの小貝”はもう今ではほとんど取れないようだ。これは、単に萩色のような赤い貝、つまりサクラガイのようなものだったのであろう。“侘しき法花寺”は、今では本隆寺という名である。
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 水島と明神崎の向こう岸をみると、海岸に緑が大きな塊になって盛り上がっている。そこが岡崎である。
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 色ヶ浜を過ぎ、かつては西浦小学校があったところを過ぎると、浦底という集落がある。ここからは明神崎が長く突き出て深い静かな入江をつくっている。
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 入江の奥に向かって走るバスの先には山が切れる谷間があり、そこには建物や構築物が建て込んでいる。そこが日本原子力発電(日本原電)の敦賀発電所である。
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▼国土地理院 「地理院地図」
35度44分20.55秒 136度2分14.31秒
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dendenmushi.gif北越地方(2016/07/18 訪問)

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タグ:福井県
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