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1392 茶ヶ崎=大津市茶が崎(滋賀県)皇子山や皇子が丘の“皇子”とはいったい誰のことなのか [岬めぐり]

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 自分ではまったく運動もしないし、ジョギングはおろかラジオ体操もしないのに、なぜか他人が走るのを見ているのは好きなので、“びわ湖毎日マラソン”も毎年3月の声を聞くと春を感じさせる琵琶湖の風景を見るのが楽しみでもある。このマラソンコースは、ほとんど瀬田川マラソンの趣を呈しているが、そのスタート・ゴール地点が、皇子山総合運動公園である。
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 茶ヶ崎は、この運動公園の北、皇子山野球場から、東へ600メートルのところにある。確かに岬の名はあると言っても、コンクリートに固められた尾花川という小さな川の河口である。この河口の左岸はマンションが建っていて、右岸はその南に続く競艇場の敷地の一部かなにかのように囲ってある。
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 川はめずらしくきれいに清掃されていて、自転車の残骸やビニールゴミがひっかかっているようなことはない。平らな川底で、水もそれほど汚れてはいないようだ。男の子が二人、リモコンカーを川の中に走らせて遊んでいた。茶色の砂が目立つが、きれいに平らなのは、その下の川底もコンクリートにしてあるからなのだろうか。川の砂が茶色いので、地域の名“茶が崎”も、岬の名“茶ヶ崎”も、そこからついたのだろうか。
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 現在の地形をみると、なんでここが岬なの?というような感もあるが、ここはやはり尾花川が比叡山から運んできた茶色い堆積が積もって、大きく砂州が飛び出していたのではなかろうか。そういう地形は、琵琶湖沿岸には多いのだ。
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 茶ヶ崎の場合は、市街地ということで、どんどん周辺での埋立てが進み、岬らしい出っ張りもわからなくなってしまった…。
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 この河口右岸と左岸の湖岸が茶が崎という地名だが、そこに建っているマンションの名には茶が崎ではなく“ルネ大津皇子が丘”という名が(ほんとうはその下にさらに“ロイヤルビュー”という気恥ずかしくなるようなのも)ついていた。河口正面に見えるのは、次の岬である柳ヶ崎。
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 ここはまだ茶が崎で、皇子が丘という地域は、茶が崎の西、JR湖西線の大津京駅や京阪石山坂本線の皇子山駅の周辺一帯で、その北部の錦織には“近江大津宮錦織遺跡”もある。
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 さて、ここで問題発生。この地域でやたら使われている「皇子(おうじ)」とは、いったい誰のことでありましょうや。
 地元ではもうそんな詮索をする人間もいないとみえて、あらゆる皇子山、皇子が丘の名を冠した施設などの情報では、まったくなにもふれていない。
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 実はでんでんむしは、最初は近江に遷都したという「中大兄皇子」のことではないかと思っていた。だが、調べてみるとそうではなく、その子である大友皇子のことであるという。
 言われてみれば確かに、近江遷都のときは皇子ではあったが、遷都後すぐに天智天皇となっているのであるから、わざわざ“皇子”とその前の肩書で呼んで地名にするのは不自然であるな。
 その点、大友皇子は古代日本最大の内乱といわれる672年の壬申の乱によって、叔父に当たる大海人皇子に敗れ、皇子山の付近で首をくくって自害したというのだから、そのほうが正しいのだろう。
 このあたりの歴史的な経緯は、古代史のなかでも?が多い。そもそも、なぜ天智天皇は、近江への遷都を断行しなければならなかったのか。白村江の戦いで敗れたため、その後の混乱を精算するためだったというのは、おそらくそうだろう。それにしては、なかなかリスキーな選択であった。が、近江のこの地域には、古くからの豪族がいて、彼らが中大兄皇子を支えたから、というのは当たっているのだろう。
 京阪の近江神宮前駅の西400メートルの丘の上には、皇子山古墳というのもあるが、その前方後方墳の存在も、古代近江のそうした存在を暗示している。
 百済に肩入れした中大兄皇子は、唐・新羅連合軍との戦争に敗れてしまう。国内の不満も抑えながら、百済からの遺民を迎え入れ、対外的な守りの体制を固める必要があった。
 幸い一度も分断占領という悲劇的なことにならなかったが、日本が外国勢力によって支配される危機は、三度あったという説がある。この白村江の後と元寇のときと、昭和20年の敗戦だというのである。昭和20年には実質的にアメリカ軍の占領下に入ったわけだから、危機どころか現実にそうなってしまっている。だから、“三度の危機”にそれを数えるのは、ちょっとおかしいが。
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 とにかく、それに匹敵するくらいの国家存亡の危機であったには違いない。その危機感が、対馬の防備を固め、北部九州の大宰府に水城(みずき)という巨大な土塁防壁を築き、九州沿岸には防人(さきもり)を配備させた。さらに、瀬戸内海沿いには古代山城の砦を百済帰化人の協力によってつくったり(鬼ヶ城などという名になったり)もしている。
 その延長に、瀬戸内に近い難波から内陸の近江へ都を移した、ということなのだろう。琵琶湖は、海上交通の道でもあったから、近江からは東の各地へ道は通じた。が、やはり遷都への抵抗は大きかったようだ。そうした抵抗勢力のしがらみのない地を選んだというのもあるだろう。
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 近江令という法令群によって、史上初めて律令体制の整備にも手を付けたとされるが、その存在は原本が残っていないため定かではない。律令制の確立は天武天皇の事績とされているので、そのきっかけになった可能性はあるが、そのためことさら近江令の存在そのものが無視されるようにもなってきただろう。
 667年に遷都してから4年後の671年には、天智天皇が崩御して、大友皇子が後を継ぐが、その翌年には壬申の乱になだれ込んでしまうので、大津の宮は5年で廃都となる。
 大海人皇子は近江を出ていったん吉野に拠り、東へ向って美濃の今でいう関が原付近(地政学的にみても常にそうなる場所)を拠点に軍勢を整え、近江朝廷軍を破って、後継者争いに勝利する。勝った大海人皇子は、飛鳥に帰って浄御原宮を造営し、即位して天武天皇となる。そうなると、もう大津の宮は誰からも顧みられなくなる。
 さてさて、実はですね、大津の宮をめぐってはもうひとつ問題が…。

▼国土地理院 「地理院地図」
35度1分16.86秒 135度51分47.59秒
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dendenmushi.gif近畿地方(2016/07/16 訪問)

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タグ:滋賀県 歴史
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