番外:東海汽船「橘丸」=三宅島から竹芝桟橋へ(東京都)三代目の柳原良平カラーリングは正直言ってちょっと?だが… [番外]

東京生まれ東京育ちの友人が、昔学校の修学旅行か何かで大島へ行ったときに乗った船の名が「橘丸」であったという。船の名も襲名されることもある(漁船などは“第八十三なんとか丸”のように番号だけ変えるのが多い)ようで、この現在の「橘丸」は三代目にあたるらしい。

東海汽船の前身である東京湾汽船が、大正時代に建造して運航していた小型貨客船を一代目として、その友人が修学旅行か何かで乗ったのは二代目の「橘丸」で、戦後に徴用を解かれて東京湾に戻ってきて、大島航路に復帰していた頃のことらしい。

三代目は、2014年6月就航を開始、総トン数は5,700トン、先年亡くなった柳原良平(当時東海汽船名誉船長)の選定で「橘丸」と命名され、船体のカラーリング(黄土色とオリーブ色と公式にはいう)も柳原が手がけたといわれている。

それまでの東海汽船のフラグシップであった「かめりあ丸」(3,715トン)などに代替するものだった。「かめりあ丸」は伊豆諸島の神津島や新島などへ行ったときに乗っているが、白を基調とした船体はもうかなり老朽化していた。(この時の写真と、柳原良平のことなどについてはこちら↓に書いている。

しかし、最初にこの船(三代目「橘丸」)の写真を東海汽船のサイトで見たときには、ヘンな色だなあ、それに斜めのラインが大型船にはどうもうまくマッチしていない。ほんとに柳原良平がこれに決めたのか?と思ったくらいだった。
ヘンなカラーリングだと思う人は、やっぱりでんでんむしのほかにもいて、なぜかと質問をしたりしているが、単に先代のを踏襲したという情報は、個人からのものであったし、先代のがどうだったかもよくわからない。なぜか東海汽船もこの問題については、どうもすっきりした答えを用意してはいないようで、積極的な説明はない。

電気推進船(スーパーエコシップ=SES)」の新造船の名を、三代目となる「橘丸」とすることについても、反対の声があったようだ。それは、戦争中の“橘丸事件”の悪いイメージを引っ張りだすまでもないという理由からだった。確かに、命名もそれまでの「かめりあ丸」「さるびあ丸」「かとれあ丸」「ふりいじあ丸「すとれちあ丸」などと続いてきた花の名前路線から、大きく変更した復古調である。

これも柳原指示なのか? そうだとすれば、二代目の因縁を承知であえてその名を三代目に襲名させた理由は、いったいどの辺にあったのだろう。
二代目は、当時の船舶が等しく辿った悲しい有為転変を経ていた。軍に徴用されて輸送船になったり、病院船になったりしていたが、事件は1945(昭和20)年それも8月3日のことである。モルッカ諸島周辺で南方戦線からの兵員の後退輸送にあたって、陸軍が病院船「橘丸」に偽名を付し、“1,562名の将兵たちが白衣を着て患者を装い、軍服や各種武器等は赤十字社の標章を付して梱包し”(wikipediaによる)て偽装して部隊・武器を輸送を計画し実行する。だが、それは国際法違反であり、出港後すぐに偵察機に捉えられて米軍の臨検にあい、拿捕されてしまう。陸軍史上最多の捕虜を出した、と記録されることになった、というのが“橘丸事件”だ。
それでも、「橘丸」そのものは、パラオからウェーク島に回航、ウェーク島からは復員兵の第一陣700名を乗せて10月20日に浦賀に帰投したという。そして、戦後は大島航路の花形にもなり、1962(昭和37)年8月24日の三宅島噴火には避難民輸送に従事するが、後輩の新造船「かとれあ丸」や「さるびあ丸(初代)」の就航とともに、押しだされるようにして第一線から退き引退した。

まったく理解不能だが、三代目に採用されているSESという推進システムは、“ディーゼル主機関直結のプロペラと電気駆動のポッド推進器を組み合わせたタンデムハイブリッド方式”、なのだそうだ。その全長は118メートル、旅客定員は約1,000名であるという。貨客船であることは他の僚船と同じで、これは主に伊豆諸島の航路に従事するということの特殊性から、自ずから決まってしまう。貨物と旅客の両方を同時にのせていくのだが、いわゆるフェリーではない。だから自家用車は載せられない。じゃぁ、貨物で運ぶのかねぇ。ま、でんでんむしには関係がないので深く追求しない。

貨客船の特徴は、前方部にクレーンを備え付けていることで、各島々の岸壁に寄港すると、早業でコンテナを降ろしまた積んでいく。
その間に、左舷のドアが開き、タラップが付けられ、乗客が降りていきまた乗ってくる。乗船するとそれぞれの選んだ船室に散っていくが、今回は昼間の長い航海になるので、特1等12,920円也(シルバー割・夏料金はもっと割高になる)をはりこんだ。受付でなぜか部屋番号を515番から517番に変更された。


特1等というのは、二段ベッドが左右にあり、その奥の窓に向かってテーブルに座椅子、一方の壁にはテレビが取り付けられていて、その反対側はロッカーと冷蔵庫(ミネラルウオーターが2本入っていたので1本いただいた)、給茶セットなどがある。ビジネスホテルみたいなもんだが、見知らぬ他人と4人(あるいは2人でも)でこの部屋を長時間に渡って共有するというのは、(相手によることはもちろん)はたしてどんなもんだろうね。


幸い、でんでんむしの部屋は相客はおらず、三宅島から竹芝桟橋に着くまでの6時間、ずっと一人だけの時間を独房で過ごしてサイコーだった。部屋の番号を変えたのは、余裕があるので相部屋にしないようにするためだったのかも…。

えらく時間がかかるのは、東京湾に入るところからは徐行運転のようにスピードを落とすからで、三浦半島が見えてからアクアラインの吸排気塔を回りこんでレインボウブリッジをくぐるまでの2時間以上が、ものすごく長いように感じる。
東海汽船の八丈島・御蔵島・三宅島を結ぶ航路は、通常の帰路は三宅島から竹芝桟橋まで直行するが、夏の間は特別に大島に寄港することになっている。しかも、大島からは東京行きの高速ジェット船に乗換えが可能らしい。
うーん、この長さを考えると、きっと乗り換えたくなるだろうね。

▼国土地理院 「地理院地図」
34度5分11.15秒 139度31分36.70秒




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