1387 新鼻新山=三宅村阿古(東京都)“火柱”のメモから想像してみる新鼻の“一夜山”ができたときのこと… [岬めぐり]

1983年の噴火の記録はそれなりにあるが、やはり誰かがそれをずっと観測していたというようなものはないようだ。誰かがカメラをずっと回し続けていたりすれば、その様子も明らかとなるが、こういう場合、まずそれは望めない。今なら、スマホで撮った動画をすぐアップする人がいるだろうけど。

新鼻(にっぱな)付近の様子も断片的な目撃情報などをつなぎあわせながら理解しようとするしかないのだが、その材料はたとえば、翌日から現地調査に入った東大の地震研究所のスタッフが、その調査報告書に、三島高校や御蔵島中学の先生?の遠望観察記録などを加えたこんな感じである。

「三宅島火山 1983年10月3日の噴火」『地質ニュース』352号所載 曽屋龍典・宇都浩三・須藤 茂の報告から
▲徳田安伸(三島高校)メモ・東大荒牧班プラス藤田治夫(御蔵島中学)の遠望記録による1983年噴火の経緯から新鼻新山にかかわるものを抽出
・1983/10/03 13:59 地震始まる
・16:40 新澪池爆発
・17:22 粟辺(新澪池西?)で火柱
・17:30 粟辺の火柱 海寄りに移る
・18:49 震度3。
・19:00 粟辺集落に溶岩
・20:34 震度3
・21;26 爆発(薄木?)
・21:40 激しい爆発(新鼻からタツネ)
・22:33 震度5 M6.1
・22:36〜 粟辺付近の2か所で火柱
・〜23:10 新鼻付近 海底爆発
・10/03 01:45 新鼻付近 時おり激しい噴火
・03:00 噴火小康状態

つまり、その後の結果と重ねあわせて想像してみると、噴火が始まった午後の夕方になって新澪池で爆発が起こり、池の北側に火口ができる。この影響で池の水が抜けてしまうのだが、とりあえずそれはおいて、続いて粟辺で火柱が立ち、海寄りに移動する。夜になって薄木から新鼻付近で激しい爆発が起こる。このときに、海岸付近でマグマが海水とふれて水蒸気爆発が発生して、大きな岩石(噴石)を周辺に落下させている。

その爆発で、スコリアなど噴出物を積み重ねて環状火砕丘ができた。これが新鼻新山になるのだが、これもできた当時は海に半分突き出るようにして、丸い縁のある火口をともなっていたようだ。(↓上記の『地質ニュース』から)

噴火でスコリア(ガスの抜けた軽石など)が積み重なって小山をつくるのは、1940年噴火でできたひょうたん山も、1962年噴火でできた三七山も同じである。ここでは、丸く高く盛り上がっていた山を形成していた大部分が吹き飛ばされ、裾の端の一部だけが残っているように見える。

新鼻では、当時吹いていた風の影響で噴出物が東に流れ、一方西には火口からの流出もあったらしい。そのため東側に広い砂漠状の地形になっている。しかし、新山の形はその後でやってきた台風の影響をもろに受けてそのほとんどが崩れてしまったのだ。その後も、崖の海食が進み、だんだんと現在のような形になっていった…。

丘が崩れて断面が露出しているが、噴火物が堆積するときに圧力がかかって溶結作用が起こると下の海岸の石のように青黒くなり、溶結が進まず空隙が残ると高温で酸化しこの壁のように赤くなるのだという。

おおむねこのようにして、一夜にしてできた山(実は山というほどの高度があるわけでもない)がこの新鼻新山なのだが、地理院地図にもまだその名は記されていないし、その地形が地図でわかるほど、明確に表示されているわけではない。しかし、名前が記される前にさらに崩落が進みそうな気配もあるので、国土地理院も様子を見ているのかもしれない。

NHKの「とうちゃこ!」番組で、自転車で回る三宅島では3か所で手紙が読まれていたことは、「1380 下根崎」の項でふれたが、この新鼻新山にもやってきていて、「みたことねえや、こんな景色」と火野正平さんも驚いた、と番組ページにあった。

カラスはどうだか知らないけど、でんでんむしもホントそう思いましたね!
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