1378 アノウ崎=三宅村神着(東京都)下馬野尾の岬の上は開拓集落のようだが2000年の雄山噴火のときは… [岬めぐり]
前項で書いたように、都道はずいぶん立派に整備されているが、この道のひょうたん山あたりまでは三宅村坪田で、坪田の中心は三宅島空港と三宅高校の間付近である。赤場暁(あかばっきょう)から北にかけてが広く神着(かみつき)という地名になる。
この神着が椎取神社とともに三宅島の神話伝説の地ともなるわけだが、神社を後になおも北へ歩いて行くと、幅の広いなだらかな尾根が北東の海に向かって流れ出している。
この尾根の上は、地図で見る道路の付け方などから察するに、どうやら開拓の集落ではないか。あるいは、1940年の噴火で家を失った赤場暁の人たちが、移り住んだ可能性もあるとも考えられるこの付近には、下馬野尾(げばのお)という字名もある。
下馬野尾の広い尾根がゆっくり海に落ちるところには、アノウ崎という名がついている。
都道が尾根の端をぶち切るように通っているが、この付近の歩道脇には花が咲く分離帯スペースも設けられ、なにやら復興事業のちょっとした余裕を垣間見るような感じがした。この付近の都道は、嵩上げとは関係がないのだろう。
下馬野尾とその先の島下の一帯は、2000年のときにも、避難指示が何度も出され何度も解除されるといったことが続いていたようだ。この神着付近では、近年では直接溶岩流の被害はなかったようなので、島全体から見ると比較的落ち着いていた地域のはずだ。
だが、雄山の火口から北東側で、ちょうど風向きから噴煙が流れてくる方向にあたるはずだ。そのこともあってか、この周辺では火山灰による被害も深刻の度を深めたと思われる。
もちろん降灰・泥流の被害も、全島に及んでいて、下馬野尾付近に限ったことではない。
内閣府の防災情報のページから、「2000年(平成12年)三宅島噴火災害」の経過リストのうち、この付近に関すること主に拾ってみるとこうなる。
・平成12年(2000年)
・6月26日 18:00頃 地震が多発。気象庁が緊急火山情報を発表。
・6月29日 有感地震 都は、災害対策本部を廃止。村も災害対策本部を廃止。
・6月30日 山頂で噴火が発生、少量の火山灰が放出。
・7月4日 山頂の新カルデラから最初の噴火。
・7月14日 9:00 三宅村災害対策本部を設置。
16:40 神着地区の一部(島下、下馬野尾)に避難勧告
・7月15日 9:00 神着地区の避難勧告を解除
・7月17日 8:30 島下、下馬野尾、沖ケ平の一部に避難勧告
・7月28日 16:00 避難勧告を全解除
・8月2日 6:30頃 噴火。噴煙の高さ3,000m
・8月10日 8:43 神着間川橋から坪田三宅島空港入口までの聞に避難勧告
16:00 下馬野尾・御子敷を除き、避難勧告を解除
・8月11日 8:00 門の原地区から三宅島空港入口までの間に避難勧告
・8月14日 16:00 避難勧告を全解除
17:00 最大規模の噴火。
・8月18日 火砕流の発生。神着地区、続いて坪田地区に噴煙柱が崩れて流れ下った。低温火砕流と呼ばれる。人的被害なし。
・9月2日 7:00 全島避難指示(2~4日で避難実施)
・9月〜 山頂火口からの大量の火山ガス放出
(4年半に及ぶ全島避難)
・平成17年(2005年)1月5日 三宅村村長、平成17年2月1日をもって避難指示を解除する旨を発表
あのう…こんなことで軽口をたたくのは不謹慎の誹りも免れないかもしれない。が、まったくの部外者がいくらかでも当時の様子を知りたい、自分の足で歩き、目で見た風景と、それを重ねあわせてみたい、というだけのことだ。お許しを願う。対策本部を廃止した後に、すぐ噴火。避難勧告を全解除すると、すぐ噴火。また避難勧告。また全解除した途端に、大噴火。
天が怒り地が狂うとき、人間はその間で、ただ右往左往するしかないのだろう。
▼国土地理院 「地理院地図」
34度6分40.32秒 139度33分30.79秒
関東地方(2016/05/19 訪問)
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