番外:三七山・ひょうたん山・赤ばっきょう・椎取神社=三宅村坪田・神着(東京都)「ジオスポット」が連続する無人地帯を歩く [番外]
三宅島は有史以来の噴火活動を続けてきている火山島だが、気象庁のサイトによると、20世紀になってから以降の噴火だけでも、1940(昭和15)年、1962(昭和37)年、1983(昭和58)年、2000(平成12)年と4回の噴火が記録されている。
このうち、1940(昭和15)年は、「7月12日北東山腹より噴火、溶岩流出。14日から山頂噴火。多量の火山灰、火山弾放出。死者11名、負傷20名、牛の被害35頭、全壊・焼失家屋24棟、その他被害大」とある。
北東山腹からの溶岩流が流れ下ったのが、サタドー岬とアノウ崎の間で、この辺りの地形や様相は、一変したのであろう。現在は、この間の溶岩流の上を島を一周する都道212号線が通り抜ける、広い大きな道路が走っているが、その沿道付近はすべて無人地帯で人家の一軒もない。
この無人地帯をサタドー岬から北へ向かって歩いて行くと、三七山→ひょうたん山→赤ばっきょう→椎取神社と、「ジオスポット」が続いてある。
三宅島の火山活動がつくりだした風景のなかを歩いて行くと、まず三七山というスコリア丘が現れるが、これは1962(昭和37)年の噴火活動によるものである。ガスの抜けた穴がたくさんある黒い軽石が火口付近に降り積もってできた噴火でできた丘のことを、スコリア丘という。案内板にもそう書いてあるのだが、でんでんむしにはなぜスコリアを暗黒色と限るのか、赤いのもあると思うのだが、それはスコリアではないのか、それがまだいまのところよくわからない。
1962(昭和37)年となると記憶も新しく、「山頂から海岸付近まで火柱が並びました。(火のカーテン)」など、なかなかリアルな噴火状況が記されている。20もの噴火口が30時間も噴火を繰り返し、2000万トンもの噴出物を辺りに吐き出した。このときは、地震も1か月にわたって続き、学童の島外避難が実施されている。
無人地帯を貫く都道はずいぶん立派になっているが、これは噴火溶岩流出も、雨のたびに火山灰の泥流や土石流で埋まったりしたために、道路の嵩上げ工事が行なわれているからだろう。
三七山の水準点が、車道と歩道の間の柵の下に埋もれるようになっていた。すいぶんひどい扱いじゃないかとそのとき思ってシャッターを押していたが、後から考えてみれば、これも嵩上げのときに引っ張りあげてなんとか元に位置に置いたということなのだろう。あれっ! でもそうすると高さが変わってしまうよね?(現在の地理院地図では、サタドー岬の南から椎取神社の北までの間には、水準点の表記はない。)
続くひょうたん山は、1940(昭和15)年に、海の中から噴火が起こって盛り上がった山だという。火山弾がそこらじゅうに散らばるひょうたん山は、なぜそう呼ぶのかもちゃんと説明があって、それによるともとは噴火口がふたつ並んでいたのだそうだ。
それが、海側で海食が進み、削られて海食崖になり、ひょうたんの片方が海に呑み込まれてしまい、その北側にあった集落が壊滅した。
案内板には赤ばっきょう(赤場暁)の絵が掲げられているが、昭和10年に描かれたその絵は崖に囲まれた入江の風景である。それが5年後の噴火で、すべて埋め尽くされてしまった。赤い崖がその名の起こりらしいが、人が駆け下りるものと同じくらい速さで谷を流れ下る溶岩流で入江も、当時は島で唯一の天然の良港も完全に埋められてしまう。
現在、わずかに旧入江だったというところの崖は、案内板によってなんとかわかるが、残念ながら見えるところは赤くはなくて黒い。
1962(昭和37)年の噴火活動でもこの付近の溶岩流は続き、都道も土石流から守るため全面的な嵩上げをしている。
溶岩流が流れた谷筋は、溶岩の誘導路として再整備されたらしい。そこを橋で越えると、椎取神社のバス停がある。
最初に神様が降ったのが、この椎取神社付近で、島の北側の地名に残る神着の言い伝えもここから始まったとみてもよいのだろうか。付近の樹叢はタブ、スダジイなどの典型的な照葉樹林帯で、神の森にふさわしいところだった。
だが、度重なる溶岩の流出と火山灰の土石流、さらには火山ガスで立ち枯れるなど、壊滅的な影響を受けた。その後は、樹叢の再生変化が少しずつ進んでいる、というのが現在の状況らしい。
ジオスポットの案内板には、神社の鳥居周辺の2000年から3年間の変化が写真で伝えられているが、その向こうに、地面から鳥居の一番上だけが、まるで丸太をそこにゴロンとおいたような姿で残っていた。
▼国土地理院 「地理院地図」
34度5分49.86秒 139度33分37.24秒〜34度6分27.72秒 139度33分29.29秒
関東地方(2016/05/19 訪問)
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