番外:“抜舟の場”から神湊へ=八丈町三根(東京都)“流人の島八丈島”が定着するのは江戸期からのことだが… [番外]
ついつい余計なことに手を出して、後で後悔することはよくある。忙しいときに限ってまた、そういう余計なことを始めてしまったりするのはなんでだろう。
AdobeのLightroomのデータが重くなったので、過去のデータを整理していたら、どうやらまだこれからアップする予定のファイルまで消してしまったらしい。
もともと写真はろくでもないのばかりだし、おまけにその日は船が欠航になったので足止めをくらった雨と風の日だったのだが、訪問した八丈島歴史民俗資料館の写真がHDのどこを探してもなくなっている。このテーマで当然番外として締めくくりをやらなければならなかったのだが、このミスを言い訳にそれはヤメることに…。
廃墟のリゾートホテルがリゾートホテルとして機能していた頃の神湊東の海岸は、いったいどんなんだったのだろう。それが疑問に思えるほど、現在のこの付近の海岸はなにやら殺伐としている。お天気の印象もあるのだろうが…。
ホテルの廃墟から神湊のほうへ行くと、浜には“抜舟の場”という石碑や“流人の碑”が立っている。そうだ、歴史民俗資料館は割愛するとしても、流人のことだけは少しでも書いておかなければならないだろう。
宇喜多秀家のことは、「1367 船戸鼻」の項で書いたが、鳥も通わぬ八丈島が流罪の場所として使われ始めたのは、為朝の伝説があるとはいえ、歴史的にいうと比較的新しい。1606(慶長11)年の秀家がその第1号でその後1600人が流されたと、歴史民俗資料館のパンフには書いてあるが、そうだとすると八丈島の流人は、江戸期に入ってからのことだ。
流罪=島流しという刑罰は、律令制が導入される以前の古代からあった。その意味は、神の怒りにふれた者を島に捨て殺しにするというもので、その精神は律令制のなかでも受け継がれていった。
死罪につぐ重刑ではあるが、多くの天皇や皇子、宗教者などが流された中世では、権力側にとって不都合で目障りな人物の勢力を削ぐ、という目的で多用された。要するに、殺すまでの理由もないが目障りで都から遠くへ追放し、邪魔されないようにという政治的な意味で実行されるケースも多かった。場所は島である必要はないし、配流地での生活もある程度自由ということもあったようだ。(崇徳院の讃岐については「1348 乃生岬」の項で、順徳帝については「1123 塩屋崎」の項で、日蓮については「1104 鴻ノ瀬鼻2」の項でそれぞれ書いていた。)
その罪が重いほど遠くへ流されたが、後醍醐天皇や尊良親王のように配流先の隠岐や土佐から脱出してまた勢力を盛り返すという例もあった。だから俊寛の場合は鬼界ヶ島(「540 足摺岬」の項)のように遠くの孤島などが選ばれるようになった、ということもあったのではないか。
そういう距離的な意味では、八丈島は適当に遠い。しかも、江戸からは舟で一直線である。江戸期からの配流は、伊豆諸島、なかでも八丈島の役割がだんだん大きくなっていく。戦国の終わりを告げる秀家配流以来、実に数多くの人が流されてきた。当初は政治犯や思想犯などが多かったとされるが、時代が下るとだんだんに単なる重犯罪人も多くなる。なかには、根っからの極悪人も当然いただろうが、そうではない人も、それぞれ特殊技能をもった人も大勢いたわけで、そういう人が島に住み着いて島に貢献したという一面もある。
なかにはうまく島に溶け込んでいけた者もいただろうし、島の女性と仲良くなるという者もあっただろう。だが、“渡世勝手次第”というのは行政管理の側の都合のいい責任放棄で、島で生きていくのは容易ではない。
禁を破ってでもなんとか島抜けをしようと思う者は、跡を絶たなかったのだろう。だが、思うのと実際に実行するのとは大いに違う。
誰が建てたのかわからない石碑と、立て看板には“抜舟の場”とある。資料館の数字とは少し違うが、秀家以来明治4年までの間に流されたのは1917人であり、抜舟と呼ばれた島からの脱出を図った事例も11回、成功したのは1回のみと記してある。
地理的には北の江戸へ向いたこの浜は、当時の八丈島から舟を盗んで逃げ出すには、まず考えられる格好の場所だったのだろう。
その横には、“流人の碑”という、なにか両手を天に差し出しているような八の字のようなモチーフの大きな碑が建っていたが、それを建てた人たちの立場がおもしろい。そばにある黒い石碑は、それを建てたのが、日本橋・浜町・柳橋・堀留・人形町・京橋のいわば流人を送り出す側、それにそれを受け入れる側の八丈島の各ライオンズクラブだというのだ。
神湊は、その当時から舟を寄せるのに適していた、古くからの湊だったのであろう。今では大きな漁港になっていて、かなり高い堤防が深いふところに多くの船を包み込んでいる。
ここも二日間にわたって二度三度訪れているので、天気のいいとき悪いときが入り混じるが、すぐ左手には神止山の小噴火口があり、その向こうに八丈富士が望める。ここから北にはもうしばらく集落はない。
“関係者意以外立入禁止”の漁港の中を突っ切って(遵法精神も時と場合による)北へ出ると、次の岬であるイデサリケ鼻も見えてくる。
この先は、実は歩いて行く時間がなく、計画では底土港から出た「橘丸」の船上から眺めるだけでいいか、と考えていた。
だが、でんでんむしも、八丈島からの島抜け脱出にはみごとに失敗してしまったので…。
そうそう、忘れるとこだったが、八丈島への流刑が正式に法律的な手続きで廃止になったのは、1881(明治14)年のことである。
▼国土地理院 「地理院地図」
33度7分47.24秒 139度48分30.73秒
関東地方(2016/04/17〜19 訪問)
コメント 0