1373 今根ヶ鼻=八丈町末吉(東京都)12人になって3年前閉校した末吉小学校もかつては200人もの児童が通っていたって… [岬めぐり]
八丈島の最東端はどこか? おそらく誰も、そんなことを知りたいとは思わないのだろう。それに、ここが東端だ西端だと言ってみても、そのこと自体がさして意味をもたない場合のほうが多い。だが、要所要所では確認しておくと、だんだんと地理間隔が確かになるはずだ、と思う。
南端は、明らかに前項の小岩戸ヶ鼻だったわけで、これは大きく南に飛び出して、島の陸地を広げるのに貢献していた。東端はどうだろう。
左にかしげたひょうたんの下のほうだから、ちょうどこの石積ヶ鼻のあたりでは…と思っていたが、地図をよく見るとここは最東端ではなかった。実際は、小岩戸ヶ鼻の北北北?東(北北東よりさらに西側にふれている)500メートルのところで、大ヶ根と地理院地図に表記のあるところが最東端になる。
この大ヶ根の西側の山のヒダに織り込まれるようにしてあるのが、末吉の集落である。
広い校庭のある小学校が静かにそこにあったが、こどもの声もしない。それもそのはずで、この日は土曜日だった…からではない。もう閉校になって久しいのだ。よく見ると校門の門柱に埋め込まれていた表札も取り外されていたし、まだ取り壊されてはいない赤い屋根の体育館か校舎がよくわからない建物の窓には、張り紙でメッセージが示されている。
「ありがとう 末吉小学校 141年の思い出と共に」
141年というのは、1872(明治5)年から2013(平成25)年までのことで、2013年3月の閉校時には卒業生2名と在校生12名であったという。閉校後は中之郷にある三原小学校にバスで通うことになったらしいが、この末吉小学校、島内で最も古い小学校だったというのである。ということは、大賀郷小学校より古いの?…と調べてみると、あちらは5年遅れの明治10年開校となっていた。
これはちょっと意外。
日本で最初の小学校が開かれたのは、1869(明治2)年のことだから、その3年後にいわば離島の南の端に小学校ができていた、というのはどういうことだろうか。しかも、同じ島内ではより歴史的に古いいわれのありそうな島の中心地であった大賀郷に、5年もさきがけてのことである。
もっとも、この時期には全国一斉に小学校開校熱が拡大しているので、離島とはいえその早さに驚くことはないのだろうが、どこに小学校をつくるか・できるかは、当時の各地の“地域力”が、大いに反映されたと推測できる。
ときどき登場していただく ChinchikoPapa さんは、ご自身のブログについた「長いけど読んだ」(初出のボタンだけはこうなっている「nice!」。ほかのところも「読んだ!」ボタンに替えられたほうがいいなあと思っているのだが…。)のブログを見たコメントを、自身のページコメント欄に書いておられる。気がつかなかった点や忘れていたことを思い出させてもらったり、「ほう!」とか「そうそう」ということも多いので、ときどきは補完的に引用活用させてもらっている。この末吉小学校についても、
東京の街中でもときどき聞きますが、末吉小学校の創立が早いのは、そこにもともと村塾か私塾、寺子屋のようなものが江戸期からつづいていて、それが明治期を境に「小学校」に認定されているというような経緯があるのではないでしょうか。江戸期からの「塾」時代を加えると、大江戸市街地には「創立200年」超えの小学校が、けっこうありますね。
…とのコメンをもらった。なるほど、村塾・私塾か。そういう可能性もあるなあ。そうだとしても、同様の塾が島のはずれの末吉にだけあって、中心部の大賀郷になかったとは思えないので、やはり別になんらかの背景(地域力のような!)があったのではなかろうか。
かつては200人を超える児童が学んだこともあるというのだから、末吉地区が繁栄した時代もあったということだ。島の代表的な“港町”だったというのだが、現在の末吉は山や尾根筋の上や下に散らばっていて、この東では港ができそうな場所もない。強いて探せば、前項の小岩戸ヶ鼻がよく見えるだろうという洞輪沢で、噴火口の火口壁ではないかというような崖に囲まれた港がある。末吉の郵便局前からそこまで2キロの道のりがあるが、実は港と住居がある集落が離れている例は多い。近年では、津波対策として住宅の高台移転が計られ、港だけが海岸に残る、職住が分離されるケースもめずらしくはないのだ。
旧学校から少し上ったところに郵便局や警察の駐在所や公会堂という名の集会所や神社があるので、どうやらこの付近が末吉の中心なのだろう。いや、中心というより、ここから奥には民家しかないのでここが末吉の入口というのが正しいのだろう。バスもここが終点である。ここから神湊(かみなと)行きになって折り返す。
石積ヶ鼻は、まだ北へ遠く、そこまではバスも行かないし、ルートもないので、末吉の東の海岸の上に出て、そこから遠望するしかない。その遠望場所が、最東端の大ヶ根の上になるあたりだろうと見当をつけて、東へ歩いて行く。
ここでもまた、こんなところで人はどうして暮らしているのだろう、と考えずにはいられないような家が何軒もあるのを横目に道を下る。下りきったところで道は行き止まり。ここでも高さは50メートルくらいはある断崖の上で、その下の海岸は見ることもできない。
この大ヶ根の上から北の海岸を望めば、北浦という断崖と岩礁の海岸線が続くので、ここも港は不向きだ。
1.7キロも先の今根ヶ鼻はこれまた100メートルを超えるような断崖の岬である。岬の内側の山は、深く高い。岬から西へは白雲山という600メートルのピークがあり、そこからすぐ三原山(東山)へつながっている。
一周道路もここを通り抜けないと一周できないわけだから、かなりムリをして集落も何もない山また山の中を、北へ向かって道路も続いている。上の写真では今根ヶ鼻の左上、伸びる竹の穂の先から左横に筋があるのがわかるが、おそらくはそこが道路であろう。この付近で標高は230メートルくらい。この先へもっと北へ進むと、その名も登竜峠で400メートルを超える。
そこから今度はつづれ折りに西に下って行くと、ひょうたんのくびれ部の東側の三根に出るわけだが、バスも通っていないこの区間は幸いなことに、今根ヶ鼻のはかには岬がないので、なんとか実行可能な計画が立つことになった。
▼国土地理院 「地理院地図」
33度5分55.69秒 139度51分24.84秒
関東地方(2016/04/17 訪問)
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