1365 今崎=八丈町大賀郷(東京都)なんで“今”なのかはわからないが今崎で遠い昔のことを考えてみた [岬めぐり]

八丈小島やひょうたんの南のふくらみをつくっている東山(三原山)の噴火形成からは、だいたい数万年くらいも遅れて出現したのが、西山(八丈富士)である。

先にできていた東山と後からできた西山が、その後に連続して続いた火山活動によってくっついて、結果的に現在のようなひょうたん型になったものだ。

東山のほうが古くてより長い地質変動の歴史を経験してきたため、形が不整形なのに比べ、西山はほぼ丸い形を保っていて、典型的な成層火山の形を示している。けれども、今はその裾野の海からは80メートルくらいのところを巻く道を歩いているので、大きな西山の山塊は見上げてもその姿は見えない。円錐形の西山の頂上には、直径約500メートルほどの火口があり、その火口の中にまた小さな火口があるのが、地図でわかる。

玄武岩質の溶岩が流れ下ってできた山とその斜面も、樹木で深く覆われている。永郷の大越の付近からも、この854メートルで伊豆諸島では最高峰の八丈富士に登る登山道ができている。大きく南北にジグザグを繰り返しながら登っていく登山道の西の端が海に落ちるところが今崎で、ここも溶岩が流れ込んだ岩根が一本少し飛び出ている。

今崎のところには、ナズマドという表記も並んでいるが、実はそこは八丈島では指折りのダイビングスポットだったのだ。それには縁がないでんでんむしは、まったく知らずに上から見ただけで通りすぎていた。


西山の堆積物を調べると、有史以前には少なくとも25回の噴火が繰り返されてきたということがわかるのだそうだから、専門の学問というのはやっぱり偉いものだ。その後も1400年代から1600年代にかけて西山噴火や海底火山の噴火があったが、それ以降は噴火は治まっているという。だが、2000年代になっても、西山の北西沖にかけての活発な地震活動があり、そのため八丈島が東へ5センチ!移動したという記録があるそうだ。
地震といえば、八丈島北方10数キロの海底付近を震源とする群発(確かそうだったと思うが)地震があったのは、2015年のことだった。
ChinchikoPapa さんからは、関東大震災のときには相模湾付近で1~2mほどの隆起があったけれども八丈島ではどうだったのか、また詳細な資料を読んだ憶えもない、とのコメントをいただいていた。津波は相模湾同様にあったと思われるが、海岸線に平坦部がほとんどない八丈島の地形では、その被害は大きくならなかったのではなかろうか。だが確かに、ほとんど大震災の様子は伝えられていないらしく、島でもそういう情報には遭遇しなかった。それは関東の他の地域でも似たようなもので、逗子や鎌倉あたりでも8メートルの津波で平坦部は全滅しているはずだが、東京の情報の陰に隠れて目立ってこなかったのではないか。
ChinchikoPapa さんからは、関東大震災のときには相模湾付近で1~2mほどの隆起があったけれども八丈島ではどうだったのか、また詳細な資料を読んだ憶えもない、とのコメントをいただいていた。津波は相模湾同様にあったと思われるが、海岸線に平坦部がほとんどない八丈島の地形では、その被害は大きくならなかったのではなかろうか。だが確かに、ほとんど大震災の様子は伝えられていないらしく、島でもそういう情報には遭遇しなかった。それは関東の他の地域でも似たようなもので、逗子や鎌倉あたりでも8メートルの津波で平坦部は全滅しているはずだが、東京の情報の陰に隠れて目立ってこなかったのではないか。
当時の調査・研究・記録・公開・理解といった情報リテラシーのレベルが、まだ伴っていなかったとも考えられる。だが、それを言うなら、現在はどうなのだろうか、相次ぐ災害の教訓はどこでどのように保存され、活かされ住民の理解は進んでいるのか…ということになる。

この火山島に人が住み始めたのは、いったいいつ頃からだろうか。
八丈島の考古学調査を主にやってきたのは、東京都教育委員会や国學院大學の調査研究班のようで、その報告がいくつかある。それによると、7,000~ 6,500年前に東山地域に上陸して、樫立地区の「湯の浜」海岸の高台に生活の拠点を設けたのが始まりだろうという。その人たちがどこからやってきたのかは定かではないらしい。その頃は、西山ではまだ噴火が続き八丈島の北西側半分は形成の途上であった。
その後、何回か何層かに分けての渡来が、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代と繰り返されてきたようで、それらの遺跡が東山や八重根地区の3箇所で発見されている。
西山にはそうした遺跡はないだろうと思われていたところが、地元住民が調査団にそれと同じような土器がたくさんあるよと示したのが、今崎の南600メートルのところ火潟(ひのかた)であった。
これが八丈島では4番目の遺跡になった。そこには先史時代の遺物もあったようだが、“火の潟遺跡”の住人たちは、主にはなんと「平安時代に近畿地方の伊勢湾あたりから、八丈島に渡島した製塩集団」(小田静夫氏=国學院大學考古学資料館紀要)であったというのだ。
ほかの遺跡からは、神津島の黒曜石が見つかっているので、古代人たちの航海術はかくも進んでいたと驚くばかりだ。これも当然とも言えるようで、北の本土へ向いてではなく、わざわざこんな南の端の島まで…というところにはやはり驚いてしまう。もちろん、現在の知恵で言えば、紀伊半島からなら沖に出て黒潮に乗れば八丈島へというのは当然のようにうなずいてしまうのだが…。

それにしても、平安期に伊勢からというのも、あまりこの手の話には出てこない時代名と地名だったので、相当意外で驚いた。

火の潟の釣り場案内標識の手前には、大賀郷小学校の永郷分教場跡の碑も建っていた。それは大正6年に開校し、昭和32年に閉校している。

大賀郷小学校というのは今に残る数少ない小学校のひとつで、八重根遺跡から東北東900メートルのところにある。大賀郷小学校の前の都道には「大小前(おおしょうまえ)」というバス停があって、このあとそのバス停で何度も乗ったり降りたりすることになる。

*これが神津島の黒曜石!
962 砂糠崎=神津島村砂糠山(東京都)“石言葉は摩訶不思議”という黒曜石の帯が取り巻く岬を回る▼国土地理院 「地理院地図」
33度8分44.16秒 139度44分22.38秒




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