1353 九十九崎=観音寺市室本町(香川県)銭形の浜で岬では初めて登場の「つくも」には“江甫草”という当て字もあるんだ [岬めぐり]

詫間駅を出た予讃線の電車が南に向かうと、しばらくは田んぼや畑のなかに池があり、丸い山がぽこぽこあるという、いかにも讃岐らしい景色のなかを走る。本山の駅を過ぎ、財田川の鉄橋を渡ると、詫間市と観音寺市の市境を越える。財田川から北北東に伸びる境界線は、七宝山と穂積山から海岸線に落ちている。

その観音寺市では北の端にあたるところが、観音寺市室本町で、港と町が小さな山の陰に固まっている。標高153.1メートルに過ぎないその山は、江甫草(つくも)山という名がある。

この山には戦国時代、この地方の豪族だった詫間弾正の築いた江甫草山城があったが、このあたりのほかのところと同じく、長宗我部によって攻め滅ぼされている。山頂には登ることができ、展望台などもあるようだ。

そして、その山の端に九十九崎という岬の名がある。とくに岬が出っ張っているというのではなく、江甫草山という山自体が半分海に乗り出すような格好になっていて、その丸い岩の海岸線が九十九崎なのだ。“江甫草”はいわゆる当て字なのだろうが、「つ・く・も」と「江・甫・草」はどこがどうあたっているのか、さっぱりわからないので、なにかの付会があってのことなのだろう。両方の表記が、いろいろに混同されて使われているところもあるらしい。地理院地図では山は“江甫草”、岬は“九十九”である。
「九十九=つくも」といえば、これまでは島や海や湾では登場している。だが、「九十九崎」として、はっきり岬の名として出てきたのは、これが初めてではなかろうか。そこで、これまでもなにかのついでに書いた覚えがあるが、“百”から“一”ひいた文字は“白”、それとツクモという植物の名と白髪をかけた歌のシャレから「九十九=つくも」になったとされているようだ。だが、それよりも、昔よく秋葉原をうろうろしていた頃にいつも覗いていた電機店の名前のほうが、すぐに思い浮かんでしまう。
ガード下のパーツ街の上にあった喫茶店コロナもなくなって、メイドカフェか何かになってしまった秋葉原には、もうこの頃では行くこともない。

この九十九崎は、ずっと南に2キロほど琴弾公園の海岸から眺めている。この間、有明浜という砂浜がまっすぐに続いている。きれいな遠浅の砂浜から海を見ると、燧灘には伊吹島とその周辺の小島が浮かぶ。

ちょっとお天気がはっきりしないので、海の景色もはっきりしないが、海岸付近にはクロマツの林が広く展開している。その奥には琴弾山と興昌寺山がある。どちらの山も江甫草山の半分くらいの高さしかないが、お寺などが集まっている。

観音寺市の中心市街地は、JRの駅を含め財田川の河口左岸一帯に広がっているが、右岸には琴弾山を中心とした琴弾公園などがある。地図では、この公園に「銭形」と表示してあるところがある。

これは、砂絵で寛永通宝を型どったものだ。観音寺のシンボルのようにして使われていたので、なんとなくあることは写真などで知ってはいたが、実際に見るのは初めてだ。かなり大きなものだが、ナスカの地上絵のごとく、当然そのそばに立って見てもなんのことやらわからない。

琴弾山の上に登ってみて、初めてその全貌(…というには下が木々で隠れているので少しオーバーだ)が明らかになる。

浜にもビニール袋を手にしたグループが集まっていたが、ちょうどこの日は市の関係者だけでなく、ボランティア参加による砂絵の手入れが行なわれていた。

たくさんの人が、丸い砂絵の縁周りに並んで作業をしている。このときは、もう砂絵の中の作業が終わって、外周で最後の仕上げに入っていたのだろう。

お天気と光線の加減もあるのだろうが、琴弾山の上から見てもそんなにはっきりと銭形が見えるとは言えないようだ。斜め上から見て円に見えるためには、実際の砂の絵は楕円につくらないといけないはずだが、その斜め上の視点はどこを基準にしたのだろうか。少なくとも、この琴弾山の上からでは、まだ真円には見えない。

なんで、ここにこんなものがあるのか。なんでも、1633(寛永10)年、家光の時代に公儀の巡遣使がやってくることになって、丸亀藩主からそのことを聞いた地元の古老たちが考え、一夜のうちに砂絵をつくった、という意味の説明が看板にはあった。

それにしても、寛永通宝とはねえ。でも幕府にヨイショするには、いいアイデアだったのかねえ。
観音寺市のシンボルとなった寛永通宝は、財田川に架かる橋やマンホールの蓋にまであしらわれていた。


▼国土地理院 「地理院地図」
34度9分4.83秒 133度38分27.87秒




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