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1351 三崎=三豊市詫間町箱・生里(香川県)荘内半島こそ浦島伝説の地であるという証拠は古歌にもあり [岬めぐり]

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 全体としては北西方向に突き出た荘内半島も、その先っちょは西に伸びて備後灘に向いて出っ張っている。先端の三崎まで100メートルちょっとの尾根には、「四国のみち」として点線の道が示されている以外に道はない。
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 箱崎からバスは糸ノ越という崖の間に挟まった小さな集落の上を通過する。“糸のように細い道で越える”という意味ではないかと思われるほど、狹い道からさらに奥には室浜という集落もあるが、バスは南に向きを変えて半島先端部を横断して仁老浜の集落に出る。
 この室浜が竜宮から帰った浦島太郎が一時暮らしていたところで、糸ノ越は浦島太郎が釣りをしていた場所である。そして、仁老浜が白髪の老翁となって余生を過ごした太郎さんのおっ母さんの実家があった地で、その名は仁義深い老人の浜という意味からついたのだそうだ。
 実は、2002年にレンタカーの助手席に乗っかって、四国を南北に縦断したことがある。それは親戚の行事で、高知から四国自動車道で瀬戸内海へ出たときに、ついでに荘内半島まで入ってもらったのだ。そのときの記録は、「034 詫間半島=三豊市詫間町大浜ほか(香川県)とりあえずここは予告編(にしては早過ぎたが)」としてあげてあった。このときもお天気が悪くて、海の景色はさっぱりだったのだが、とにかく行けるところまでというので、室浜までやってきていた。はやすぎた予告編から本編まで、だいぶ間隔があいてしまったし、本編もやはりお天気がぱっとしなくて…。
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 北海岸では室浜まではいちおう道があるが、南海岸では仁老浜から先は一本の山道だけしかない。この出っ張りの北側は箱だが、南側は生里(なまり)。
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 したがって、荘内半島の最先端の岬である三崎を眺めるには、仁老浜の海岸、それもできるだけ南寄りでないとうまくない。海岸の南のギリギリから見ると、どうにか先端も見えるが、これでもだいぶ後ろのほうから眺めていることになる。
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 地図ではこの三崎の斜面50メートルくらいのところに灯台があるのだが、それがどうも見えないようだ。やはりここでは角度がよくないのだろう。しかし、ここからは小山がポコンとあるので、これ以上は南に下がれないし、この山を南に回りこんでみたとしても、今度はその山が邪魔になってしまうので、三崎を見るいちばん近い場所はここしかないことになる。
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 先端部の102メートルのピークには、地図では神社の記号もある。それらしき建物、それも結構大きな屋根らしきものが、写真を拡大してみるとわかった。「四国のみち」の行き止まりにある神社は、どの地図にも表記がないが、海上を守る大己貴命を祭神とする三崎神社である。
 船乗りやこの海を航行する菅原道真や藤原純之(純友の弟)、追捕使の小野好古などからも崇敬されていたというから、結構古くから有力な神社であったらしい。ここも「岬=三崎=御崎」である。
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 浦島さんの伝承地については、いずれも三豊市観光協会のサイトからの情報によっているが、同じサイトで足利義満が1389(南北朝に分かれていた時代なので和暦はふたつある)年に、広島の厳島神社参詣の途中で三崎神社に詣でたとある。そして、そのときに残した歌がある。
  へだてゆく 八重の汐路の 浦島や 箱の三崎の 名こそしるけれ
 つまり、室町時代にはすでにこの荘内半島の地域が、「浦島」と呼ばれていたことがわかる、その証拠だというわけだ。
 江戸期にくだっても、参勤交代の大名らの船が三崎神社の沖にさしかかると、船の帆を下ろして通っていたといわれるくらいだという。
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 三崎の先端の海中には御幸石(おこのいし)という岩礁があるが、これは地理院地図にも記されている。それも神社との関係を示しているようだが、それにしてもこの神社に参拝って、この斜面をよじ登ったのかねえ。現在の地図には点線もない。
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 三崎のずっと向こうの遠い島影は、広島県福山市の阿伏兎観音から南西に連なる田島や横島であろう。そのずっと左が因島になる。
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 仁老浜は、砂浜の南に石積みで囲った小さな漁港があり、集落の裏手には田んぼも広がる。その田んぼを突き抜ける道に、記念碑が立っている。浦島関係かと思えばそうではなく、農地再開発のため区画整理を行なったことの記録記念のようだった。
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 山に囲まれたこの田んぼはさして広くもない。しかも、碑の隣は休耕田なのか、草が茂っている。けれども、ここにこんな牌が立っていることの意味を考えてみると、仁老浜のさほど大きくない集落の奥の農地は、かつてはずいぶん細切れになっていて、不規則に曲がった畝で区切られていたのだろうと推測される。それを区画整理して、真っ直ぐな道をつけ、田んぼの配分をやり直すのは、想像以上に大変なことだったのだ。
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 現在の地名表記では三崎の先っちょからこのあたり一帯が、詫間町生里なのだが、道の南の小さな峠を越えると元から生里と呼ばれていた生里集落になる。
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▼国土地理院 「地理院地図」
34度15分42.32秒 133度33分27.57秒
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dendenmushi.gif四国地方(2015/11/01 訪問)

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タグ:香川県
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