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1341 長崎ノ鼻=高松市屋島西町(香川県)“源平屋島古戦場”はいったいどこなのかという昔からの疑問解明に挑んでみた(大げさ!) [岬めぐり]

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 屋島の古戦場って、いったいどこが主戦場だったのだろうか。そういう漠然とした疑問をもちながら、これまでそれを究明しようというほど積極的な意思もなく,そのままになっていた。
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 昔の地図では、古戦場は刀がぶっ違いになった記号で示されていたのだが、今の地理院地図ではそれはなくなっている。その代わり、たとえば桶狭間では愛知県豊明市に「∴ 桶狭間古戦場伝説地」とあるし、関が原には「∴ 徳川家康最初陣地」から「∴ 最後決戦地」まで、合計10か所もの「 ∴ 」がついている。桶狭間は伝説だが場所を特定し、関が原は史実としての旧跡を示しているわけだ。
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 では屋島はどうなのか。屋島にはひとつもそんな表記がない。
 Mapionだけは、“刀ぶっ違いマーク”を今でも採用していて、それつきで「源平屋島古戦場」としているが、その場所は屋島の北端に出っ張っている長崎ノ鼻から、東南東1.2キロほどの海上である。
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 ところが、『平家物語』を読んでみても、そういった海戦の記述はほとんどないに等しく、もっぱらあるのは例の那須与一の話とか、言葉合戦とか、義経の弓流しなどのエピソードばかりなのである。大方の歴史や記録が、勝ったほうからの立場や取材ソースからできているはずなのでそのつもりで読まなければならない。多くは陸の攻め手の源氏側からの目線で書かれているせいもあろうが、それならばなおのこと、海戦で源氏が勝ったとすればその記述や言い伝えがほとんどないというのが変だ。
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 歴史もこの辺りになると確実な史料に乏しく、史実と断定できる材料がないために、国土地理院では「 ∴ 」マークはつけず、屋島の戦いはほぼ伝説扱いにしたのだろう。
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 だが、地元は昔からそうではなかったようで、たくさんの墓やら記念碑などの石碑やら(なにしろ石には不自由してないので)が、無数にあるようだ。阿波から上陸した義経が、大坂峠を越えて讃岐に入り、干潮を利用して屋島に渡って屋島城の平家を攻めたことになっているが、その場所はだいたい琴電の六万寺駅から西、八栗駅、古高松駅のラインから北にかけての一帯であったようだ。
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 ただ、ここでも華々しい武者同士の戦闘があったかといえば、そういう記述もない。細かいことにこだわるようだが、那須与一の故事にしても、彼が馬に乗って海に入って矢をつがえ放ったとされる場所は、相引川の海につながる牟礼であったとされている。そこはイサム・ノグチ庭園美術館の南付近で、石碑やら記念公園まである。ということは、扇を掲げた女房を乗せた平家の船は屋島側から出たことになりそうで、なんとなく両軍陣地が海を挟んでいるような姿を想像していた。だが、これが違うのだ。
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 『平家物語』にしても歴史ではなく物語なのだし、屋島の城の場所もよくわからないので、なんとも言えないのだが、安徳帝がいたのは六万寺付近とされる記述もある。だが、ずっとそこにいたわけでもなかろう。この扇を射るときにはもちろんだが、義経が屋島に渡る頃にはすでに平家は屋島の拠点を捨てて、船で海に逃れ出ていたと解釈すべきなのだろう。
 
 「今日は日暮れぬ。勝負を決すべからず」とて、源平互いに引き退く所に、沖より尋常に飾つたる小船一艘、汀へ向かひて漕ぎ寄せ、渚より七、八段ばかりにもなりしかば、船を横様になす。「あれはいかに」と見る所に…
 
 物語=史書ではないが、『平家物語』のこの記述も、対岸の屋島から出た船とは書いていない。「沖より」なのだ。それにしては、さっさと逃げるなり何なりすればよいものを、屋島を追い出された後では余裕もあるはずもないのに、そんな無意味な挑発を沖からわざわざ漕ぎ寄せて行なうのも変な話なのだが…。
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 翌日、平家は船団を志度湾に回し、そこからの再上陸を試みるがあっさりと失敗していて、この後は海に漂いながら西海へ向かい、壇ノ浦の決戦へとなだれ込んでいくことになる。
 源氏がかき集めた梶原景時の軍船は、屋島には間に合わなかったはずなので、結局“海戦”は屋島付近ではなかったことになるのではないか。先の鎧島・兜島の伝説がピンと来ないのも、そのせいだ。
 その屋島にも、“壇ノ浦”という字名を地理院地図は残しているが、当然というかこの名も後世にとってつけたものではないのか。
 とにかく重要なことは、当時の屋島は今とは違って名実ともに立派な島だったということだ。現在は南の相引川も細くなって完全な陸続きになっているが、義経がそこを渡るところでは、いちおう“浅瀬を探して”渡ったことになっている。東の屋島と庵治半島の間の海峡も、両側からの埋め立てですっかり狭まり、細い水路でしかなくなっている。これをみると、人の考え方も昔と今では違うからだとは言え、ますますこの狭い水路に入ってわざわざ敵の前に船で出てくるなど理解し難い。
 屋島の古戦場がイメージしにくかったのには、屋島を島として理解できていなかったかったせいもあるのだろうし、なんとなく定着していた海上の“古戦場マーク”に惑わされていたからだろう。その一方で、八栗周辺では言い伝え残すべきような戦闘もなく、戦場というより兵站に過ぎなかったために、“古戦場”にもなり損ねた、とみるのは穿ち過ぎだろうか。

▼国土地理院 「地理院地図」
34度23分2.27秒 134度5分35.52秒
nagasakinohanaM-1.jpgnagasakinohanaM-2.jpg
dendenmushi.gif四国地方(2015/11/03 訪問)

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