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1307 藤吉鼻=七尾市中島町瀬嵐(石川県)ここにはブイだけでなく木を立て並べたようなものもあるが… [岬めぐり]

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 広島生まれのでんでんむしは、家がそれに関係していたわけではないが、かき養殖の現場とは、ごく近いところで過ごした。
 小学校へ通う道にはかき打ち場があり、海岸に泳ぎに行けばうずたかく小山のように積み上げられたかき殻があり、遠浅の干満の差の激しい広島湾の海の中には、かきひび(かきをつるすため竹で組んだやぐらと垣棚)が、ずっと沖のほうまで続いていた。種苗を付着させたホタテ貝の貝殻の真ん中に穴を空け、短い管をはさんで間隔をとりながらロープに通したものが、そこにはたくさんぶら下げれられている。
 生で食べる習慣は一般的にはあまりなかったと思うが、毎年お正月の雑煮も、白みそ仕立てで小ぶりのかきを入れるのが決まりであった。
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 能登半島が日本海側一の産地というかき養殖は、七尾西湾が発祥の地というが、それはいつ頃のことだろうか。石川県漁業協同組合の七尾西湾出張所のサイトによれば、1887(明治20)年頃からとしながらも、本格的なかき養殖の開始は大正に入ってからだという。それが、いまでは米作りに次いでの重要産業となっているのだそうだ。
 この漁協サイトでは、かき養殖は「日本では江戸時代からはじめられました」と書いているが、実際はそれよりももっと古いはずである。
 「天文年間(1532〜1555)、安芸国において養殖の法を発明せり」という記録にあるのがその起源であろうが、この頃(室町時代末期)は原始的な採取法に毛の生えたようなもので、干潟に並べた小石に牡蠣を付着させ成育を待つような養殖法だったようだ。
 三陸のかき養殖の始まりも1600年頃のようだが、そちらでは一時技術が絶えてしまい、その後復活を期して広島からの技術導入をはかろうとするのが1800年頃である。(それらについては、前に宮城県の岬めぐりでも触れている。)
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 七尾西湾の漁協に加盟している養殖業者は23軒で、そのうちの4軒は中島町瀬嵐に、その南の浜田などに4軒、そして河口以南の筆染と笠師保に5軒などと続いてある。
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 前項で、藤吉鼻の北奥のほうに集落があると書いていたが、ちょうど小谷鼻と藤吉鼻の間に入江があって、その奥の集落の中心と養殖の拠点があり、その養殖ブイは湾の北側に展開しているのだろう。藤吉鼻の沖合には、ブイではなく木の杭のようなものも並んで海中に立っている。
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 「1304 よこさ鼻・湾崎」の項で、かき釜飯をいただいた店も養殖業者の直営だったが、それら中島町外・小牧・深浦など北湾南部の業者も、この西湾の漁協に所属しているようだ。
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 日用川の河口右岸一帯は、筆染というなにやら風雅な字名がついている。ここから上流に流れは二手に分かれ、北のほうの流れの奥まった山間が、中島町中島の集落で、この付近の中心地となる。
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 駅から南の川沿いには奥のほうまで、流域に田畑が養われているのをみると、河川敷の開墾から始まった農地開拓は、川の流れに沿って海へ海へと延びてきたようである。
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 真っすぐな道と水路が、水郷地帯のような雰囲気をつくっているが、このような地形と風景は、ここから能登西湾岸沿いに笠師保駅、田鶴浜駅を経て、和倉温泉駅の手前まで続いている。fujiyoshi-9.jpg
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 能登中島駅まで戻って、その沿線を七尾まで下って行くが、その車窓からはもうひとつ七尾西湾の岬をチェックしておかなければならない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
37度6分35.72秒 136度52分49.29秒
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dendenmushi.gif北越地方(2015/09/14 訪問)

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タグ:石川県
きた!みた!印(35)  コメント(1)  トラックバック(0) 
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きた!みた!印 35

コメント 1

(。・_・。)2k

今年一年ありがとうございました
良い年をお迎え下さい
来年も宜しくお願い致します(^^)

by (。・_・。)2k (2015-12-31 23:10) 

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