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1285 赤崎=鳳珠郡能登町字布浦(石川県)大きな歴史もあった小さい町の北東に伸びている岬 [岬めぐり]

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 尾ノ崎と赤崎、ふたつの岬に挟まれた湾に松波川が注ぎ込む河口の平地に発達した町は、松波村→内浦町→能登町(のとちょう)と変遷を経ながら、珠洲市の合併にも参加しなかった。現在では能登町の字にその名が残るのみで、赤崎のあるところは同じく内浦町を形成していた布浦も同様である。
 能登町の中心は、役場のある宇出津町(うしつまち)のほうなのだが、尾ノ崎と赤崎を見るため、松波本町でバスを降りて松波漁港まで歩いて行く。
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 町の中を松波川が流れ、川の北側には小高い丘があるが、そこは昔の城跡だ。小さいながらいちおう城下町だったらしい。
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 京都では応仁の乱のさなか、能登守護だった畠山義統がその三男義智に命じて築城させたのではないかと言われている松波城は、1474(文明6)年の完成から松波城に義智が居城とし松波氏を名乗った。実際にはその以前から地方豪族の松波氏があったので、なんらかのかたちで名跡を継いだとみられているが、史料がないので確かなことがわからない。京の日野家と関係もあったという。そういえば、日野家と関係があって松波を名乗った者には、斎藤道三がいたが、それと関係があるのかどうかもわからない。
 京風文化の名残りをとどめる室町様式の枯山水を配していた、水の流れをさまざまに表わした他にあまり類を見ない庭園遺構が発掘によってみつかり、石川県指定名勝に指定されたが、もともと能登畠山氏の文化的水準は高く、街づくりにも刀剣製作をはじめ各種産業を興し、海運も盛んで城下は発展していたらしい。
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 畠山本家の七尾城が、上杉謙信に攻められて落城したのは、1577(天正5)年のことだった。このとき、七尾城にあった6代松波義親と家臣らはどうにか脱出し、松波城に帰って立て篭もるが、謙信の派遣した大軍の前に抗戦空しく落城。義親は自刃し、松波城は灰燼に帰す。
 落城後は商工業者も他郷へ流失していき、松波は200軒足らずの百姓家を残すのみとなったという。
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 なにやらいかにも古そうな歴史を偲ばせるたたずまいの町の通りには、それを証明するかのように、街路灯とガラス?板に透かし加工した飾りが内浦商店連盟の手でおかれてある。こういうのは初めて見たが、この地に伝わるキリコ祭りなどのデザイン。能登では合併前の旧村ごとにそれぞれ地域の祭りがあるので、能登町にもいくつもの祭りがある。
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 ようやく雲の切れ間から、青い空がちょっとだけ覗くようになった。
 松波中央からは北東に向かって、約2キロほど突き出た岬がある。その付け根では1キロの幅がある。尖っているその北端が赤崎である。
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 漁港からだと防波堤がその裾を隠してしまうので、堤防の上を先まで歩いて行くと、赤崎が見える。
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 その先端には岩礁地帯が広がっていて、その岩島のひとつの上に灯台が立っている。
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 だが、この岬をなぜ赤崎と呼ぶのかについてはわからないが、おそらくは赤土があるのだろう。まさか、30メートルくらいの台地の上では、イチゴの栽培が行なわれているから…というようなことではあるまい。ストロベリーパークは、この向こう側の海岸にあるらしい。
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 赤崎海岸で「苺一会 いちごいちえ」という催しに出店した、という情報もあった。それを発信していたのは、“松波に来たら苺は赤崎で、酒は「大江山」”という地元の松波酒造。
 そのほか、能登赤崎モビレージというオートキャンプ場もあるようだし、半島の反対側には、沖の平島を結ぶフィッシングブリッジ赤崎(釣り桟橋)もある。岩磯ばかりで砂浜がほとんどないので、海水浴場はないらしい。地味目ながら、そんな赤崎も精一杯がんばっているようだ。
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 このまま晴れるのかと思いきやまた黒い雲が出てきた。

▼国土地理院 「地理院地図」
37度21分25.04秒 137度15分57.27秒
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dendenmushi.gif北越地方(2015/09/13 訪問)

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タグ:歴史 石川県
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