1272 竜ヶ崎=輪島市鵜入町(石川県)皇紀二千六百年の石柱とケータイ中継基地がある鵜入漁港の東 [岬めぐり]
鵜入の漁港と集落を抱える入江は、牡蠣鼻西の端の岩場と、東の小さな岩場との間が250メートルほどしかない。 鵜入は大沢より二回り小さいと書いていたが、こうしてみると二回りどころか三回りも四回りも小さい。
輪島市街地へ戻るバスが、鵜入の集落の上に差し掛かると、前方に低い飛び出しが現れる。それがこの竜ヶ崎。砂浜がほとんどないこの付近では、断崖と荒磯が終わるここから東へも、岩の海岸線が続いていく。
さらに東へ進み光浦トンネルを越えると、岬の名はないが3つ4つの出っ張りがあり、大尖岩、小尖岩、そしてダルマ瀬などという名前も地図にはある。そこを過ぎるともう袖ヶ浜で、大沢に向かう西保線の下りバスに乗ったところだ。
県道も、竜ヶ崎から東へは、ほぼ海岸に近い10メートルくらいの低いところを通っているが、一か所だけ光浦のトンネルの手前で30〜40メートルの高さになるところがある。
下りのバスで来るときにそこから見ると、いくつもの岩根が連続して張り出している様子がわかるが、竜ヶ崎はこの西の端にあたる。
黒い瓦屋根の鵜入集落の東、港の防波堤の向こうでこの岬の上を道路がカーブするところには、電柱となにやら石柱と台座が立っている。鵜入の集落に入る入口の、いちばん目立つところである。
これはいったいナンだろう? 気になったので、写真を拡大してつぶさにみると、石柱のほうには「皇紀二千六百年一月」とあった。その下のほうにも、文字があるようだがそれは読めない。
その年はでんでんむしが生まれたのと同じであるが、この頃は全国各地で盛んに国を挙げての奉祝行事が行なわれていた。神武天皇即位から数えて2600年目、というのだ。まああんまりおもしろくはなさそうだが、日中戦争の最中、太平洋戦争に入る前ながら、国策事業だからこのときの日本中の浮かれようといったら、提灯行列に花電車、記念切手に大祝賀会と、オリンピックの比ではないくらいだったらしい。
この能登の北のはずれの小さな漁村でも、それを祝う行事があったのだろう。石柱の意味は記念の碑か何かでも建てたものだろう。その隣りには石の台座だけが残っていて、上になにがのっかっていたのかはわからない。
それが、いつのことかはわからないが、なんらかの事情によって、取り払われた。台座と石柱だけはそのまま残された…。それは、おそらく時流の変化によって、あってはならないものとされたからなのだろう。
考えられることは、台座の上にあったなにかが撤去された時期には、①戦時中の金物などの強制供出、②戦後の民主化過程での皇国史観の否定、の二つの可能性がある、ということだろう。
このうち、①については、建ててからまだ間がないうえに神武天皇がらみのものを供出にだす可能性は低いので、②のほうが有力かな。
その横に立つ電柱のようなものは、電柱ではなくNTTドコモが立てた携帯電話用の通信中継装置のようである。
75年もの歳月があると、紀元2600年とケータイに時代の違いができる、ということを示すこの写真には、自分の生きてきた時間と同期するので、勝手な思い入れもたっぷりあるわけだ。
「鵜入海岸」という国定公園の看板も鵜入漁港の看板と並んであったが、つまりここでは以下のような式が成り立っているということだ。
外浦海岸 > 西保海岸 > 鵜入海岸
「1268 瀬ヶ岬」の項では、西保小学校のことに触れ、今では廃校になっているようだと書いていた。では、西保小の廃校後はこどもたちはドコの学校へ通っているのだろうか。それも気になったので調べてみた。
現在の学区では、西保線バス終点の西二又町から東に点在する集落のこどもたちは、すべて鳳至(ふげし)小学校に通うことになっている。その小学校のある鳳至町は、輪島市街の西、鳳至川左岸の赤いいろは橋にも近いところである。西二又からはおよそ17キロもあるので、スクールバスが出ているのか、あるいは西保線自体がスクールバスになっているのか…。
後者だとすれば、西保線のバスダイヤが午前中には西二又から出る便だけで、輪島から出る便がひとつもない、ということの説明にもなるのか…。
▼国土地理院 「地理院地図」
37度24分7.89秒 136度51分10.26秒
北越地方(2015/09/12 訪問)
タグ:石川県
能登半島は行ったことがあるのですが北の先端まで行ったことはありません。
by U3 (2015-10-18 16:12)
@結構大きな半島ですのでね、まあ、車でザアーッと回るくらいはできるでしょうが、その端っこ奥まで行くには日数もかかりますし、泊まらなければならないし…。
和倉温泉くらいまで…という人も多いのではないでしょうか。
by dendenmushi (2015-10-19 07:35)