番外:門前町総持寺祖院と再びのビュー・サンセット=輪島市門前町鬼屋・門前町北川(石川県)門前町の岬まとめを兼ねて [番外]
2015年の能登半島の岬めぐりは、門前町深見の猿山崎で終わっていた前のルートを引き継ぎ、半島北西部の海岸から始まったが、北は次項の大長崎のある門前町皆月から南は門前町剱地の琴ヶ浜の黒崎まで、およそ17.3キロにわたって“門前町”が続いている。鳳珠郡門前町は2006(平成18)年に、隣接する輪島市と新設合併していて、この合併によって門前町内の108もの大字にはすべて、「輪島市門前町」を旧字名の上に冠することとなったためである。大字が108もある(煩悩の数と同じ!)というのが驚きだが、それも門前であることとなにがしか関連があるのだろうか。
大きな寺社がある場合、その門の前から周辺にかけて町が形成される。それを“門前町”と呼ぶわけだが、それがそのまま町や行政区画の名称になっているところも全国で数えれば10か所くらい(もっとかな)はありそうだ。ここ、能登の“門前町”もそのひとつだが、ここの“門”はどこの門だろうか。それは「總持寺」である。総持寺と言えば今では鶴見だが、その発祥がここなのだ。
この地に、曹洞宗大本山總持寺ができたのは1321(元亨元)年で、後醍醐天皇や鎌倉幕府執権は北条高時という時代である。開祖の螢山紹瑾禅師は、後醍醐帝の綸旨を受けて勅願所となり、曹洞宗第一の道場の地位を固めたといわれる。
ナンでこんなところに曹洞宗大本山が…という思いも湧き出てはくるが、とにかくそれから1898(明治31)年に火災で焼失するまで、末寺一万六千余をかかえる大本山の役割を果たし、門前町も発展してきた。
火災で七堂伽藍の大部分を失ったのをきっかけとして、大本山は1911(明治44)年に神奈川県横浜市鶴見に移転され、復興を果たしつつ能登は總持寺祖院を称することになる。
この辺りのいきさつにどういう事情があったかは、拝観受付でもらったパンフにも、ほとんど触れていない。祖院として復興はしたものの、全盛期の大本山門前町の賑わいは、おそらく取り戻すことはできなかったのだろう。
前回の門前町訪問では、祖院の見学までできなかった。今回は空港からすぐ門前にきて、午後の五十洲へのバスの便まで時間ができた。寺内では仏殿などの大改修工事の最中ではあったが、今回はゆっくり時間をとって参拝し、紅葉の色づき始めた小雨の境内を歩き、門前のナマコ壁のカフェで一休みできた。
五十洲、皆月の帰りから、直接輪島市中心部へ出て、そこに泊まることを考えていたが、どういうわけか輪島市内のホテル・民宿の類いがどこもいっぱいで予約できない。そこで、コースとしてはちょっと後戻りになるが、前回も泊まったことのあるビュー・サンセットに能登半島最初の一泊することになった。
皆月から乗ったバスが門前に到着するのを、宿の車が迎えてくれて、以前も通った道を南に向かう。途中、黒島の集落辺りにはいろいろ観光案内の看板や幟などが出ていた。これは前にはなかったのだが、この地の廻船問屋の古い住宅などを保存して輪島市の文化財とし、「天領黒島」として売り出すことになったようだ。
ビュー・サンセットのことは、前にも書いていたが、広い敷地の多彩な建物を利用して、リゾート・ホテルからファミリー・インへ軸足を移したようで、家族連れや学校行事でやってきたらしい小中のこどたちの団体も泊りできていた。
今回泊まった部屋は広い庭にひとつだけある離れである。その離れには「荼?(どび)?=草冠+麻+非」という名がつけられている。ここの各部屋には花の名が当てられているが、離れだけは中国の花の名であるという。
この宿の設計がなかなか変わっていて、「いずれ名のある建築家」の作品であろうと前には書いていたのだが、二度目だからそれもちゃんと究明しなければならない。
その建築家は、毛綱毅曠(もづな きこう 1941〜2001)という人であった。最後には多摩美で教授を務めたこの人の作品には、岬めぐりでもここのほか、釧路フィッシャーマンズワーフMOO や北越急行ほくほく線のくびき駅舎、今回のルートで通る石川県能登島ガラス美術館がある。
曼荼羅を表すという客室のひとつで、どんな夢をみたのかは思い出せない。
■関連リンク
番外:国民宿舎足摺テルメ=土佐清水市足摺岬(高知県)建築家ここにあり
*輪島市門前町の岬・全リンクリスト(北から南へ)
1265 大長崎 (次項に掲載予定)
1264 小崎=輪島市門前町皆月(石川県)通ヶ鼻からさらに北へ細い道を行くとあれっ?また小崎ですよ
1263 通ヶ鼻=輪島市門前町皆月(石川県)クラゲのような形をした「神様岩」がある港も船も小さいが…
1262 小崎=輪島市門前町五十洲(石川県)猿山岬に続く次の岬は皆月線のバス終点の先にある風の岬で…
1261 猿山岬=輪島市門前町深見(石川県)能登半島の西海岸線をつないでいくルートはここで分断されているので…
730 猿山崎=輪島市門前町深見(石川県)猿山岬と猿山崎は別の岬でこの付近を能登半島地震が直撃した
731 上長谷崎=輪島市門前町鹿磯(石川県)いまさらながら“岬”は日本の海辺の風景に欠かせないと思う
732 赤神崎=輪島市門前町赤神(石川県)赤い神の岬を守ってきた八ッの島は砕けて岩礁になったのか
733 黒崎=輪島市門前町剱地(石川県)ここはいちばん多い岬の名前がついた岬ですがなにか…
▼国土地理院 「地理院地図」
37度17分11.71秒 136度46分12.93秒 37度16分8.64秒 136度44分1.53秒
北越地方(2015/09/11?12 訪問)
大きな寺社がある場合、その門の前から周辺にかけて町が形成される。それを“門前町”と呼ぶわけだが、それがそのまま町や行政区画の名称になっているところも全国で数えれば10か所くらい(もっとかな)はありそうだ。ここ、能登の“門前町”もそのひとつだが、ここの“門”はどこの門だろうか。それは「總持寺」である。総持寺と言えば今では鶴見だが、その発祥がここなのだ。
この地に、曹洞宗大本山總持寺ができたのは1321(元亨元)年で、後醍醐天皇や鎌倉幕府執権は北条高時という時代である。開祖の螢山紹瑾禅師は、後醍醐帝の綸旨を受けて勅願所となり、曹洞宗第一の道場の地位を固めたといわれる。
ナンでこんなところに曹洞宗大本山が…という思いも湧き出てはくるが、とにかくそれから1898(明治31)年に火災で焼失するまで、末寺一万六千余をかかえる大本山の役割を果たし、門前町も発展してきた。
火災で七堂伽藍の大部分を失ったのをきっかけとして、大本山は1911(明治44)年に神奈川県横浜市鶴見に移転され、復興を果たしつつ能登は總持寺祖院を称することになる。
この辺りのいきさつにどういう事情があったかは、拝観受付でもらったパンフにも、ほとんど触れていない。祖院として復興はしたものの、全盛期の大本山門前町の賑わいは、おそらく取り戻すことはできなかったのだろう。
前回の門前町訪問では、祖院の見学までできなかった。今回は空港からすぐ門前にきて、午後の五十洲へのバスの便まで時間ができた。寺内では仏殿などの大改修工事の最中ではあったが、今回はゆっくり時間をとって参拝し、紅葉の色づき始めた小雨の境内を歩き、門前のナマコ壁のカフェで一休みできた。
五十洲、皆月の帰りから、直接輪島市中心部へ出て、そこに泊まることを考えていたが、どういうわけか輪島市内のホテル・民宿の類いがどこもいっぱいで予約できない。そこで、コースとしてはちょっと後戻りになるが、前回も泊まったことのあるビュー・サンセットに能登半島最初の一泊することになった。
皆月から乗ったバスが門前に到着するのを、宿の車が迎えてくれて、以前も通った道を南に向かう。途中、黒島の集落辺りにはいろいろ観光案内の看板や幟などが出ていた。これは前にはなかったのだが、この地の廻船問屋の古い住宅などを保存して輪島市の文化財とし、「天領黒島」として売り出すことになったようだ。
ビュー・サンセットのことは、前にも書いていたが、広い敷地の多彩な建物を利用して、リゾート・ホテルからファミリー・インへ軸足を移したようで、家族連れや学校行事でやってきたらしい小中のこどたちの団体も泊りできていた。
今回泊まった部屋は広い庭にひとつだけある離れである。その離れには「荼?(どび)?=草冠+麻+非」という名がつけられている。ここの各部屋には花の名が当てられているが、離れだけは中国の花の名であるという。
そこで初めて知ったのだが、中国の二十四節気の花便り「二十四番花信風(にじゅうしばんかしんふう)」には、穀雨の花として牡丹とこの「どび}を配しているのだ。学名はRosa rubusというキイチゴ類らしいが、結局どんな花かはよくわからぬままであった。
この宿の設計がなかなか変わっていて、「いずれ名のある建築家」の作品であろうと前には書いていたのだが、二度目だからそれもちゃんと究明しなければならない。
その建築家は、毛綱毅曠(もづな きこう 1941〜2001)という人であった。最後には多摩美で教授を務めたこの人の作品には、岬めぐりでもここのほか、釧路フィッシャーマンズワーフMOO や北越急行ほくほく線のくびき駅舎、今回のルートで通る石川県能登島ガラス美術館がある。
多摩美が開いた特別展では、このようにいう。
日本や中国の神仙思想、アジア諸地域の独特な来世観などに取材し、その時空を越えた「人と宇宙、自然との共生」への意識を現代に生きる我々の建築や都市空間にどう応用できるかが、重要なテーマとなっていました。そうした超越的な宇宙観へと飛躍するイメージの展開は、あまりの斬新さに時として賛否の声が起こることもありましたが、建築や都市問題へのグローバルな循環意識、環境や文化へ奥行きの深さを昇華していくデザインを一貫することで、国内はもとより、海外においても高い評価を受けました。
また、wikipediaは「ただし彼の作品は、実用性、メンテナンス面で非常に難があるデザインの建築物であることも指摘されている」とも言う。
確かに、風変わりな設計だけに、今後もこれを維持していくのには苦労もあろうかと思わせる。
曼荼羅を表すという客室のひとつで、どんな夢をみたのかは思い出せない。
番外:国民宿舎足摺テルメ=土佐清水市足摺岬(高知県)建築家ここにあり
*輪島市門前町の岬・全リンクリスト(北から南へ)
1265 大長崎 (次項に掲載予定)
1264 小崎=輪島市門前町皆月(石川県)通ヶ鼻からさらに北へ細い道を行くとあれっ?また小崎ですよ
1263 通ヶ鼻=輪島市門前町皆月(石川県)クラゲのような形をした「神様岩」がある港も船も小さいが…
1262 小崎=輪島市門前町五十洲(石川県)猿山岬に続く次の岬は皆月線のバス終点の先にある風の岬で…
1261 猿山岬=輪島市門前町深見(石川県)能登半島の西海岸線をつないでいくルートはここで分断されているので…
730 猿山崎=輪島市門前町深見(石川県)猿山岬と猿山崎は別の岬でこの付近を能登半島地震が直撃した
731 上長谷崎=輪島市門前町鹿磯(石川県)いまさらながら“岬”は日本の海辺の風景に欠かせないと思う
732 赤神崎=輪島市門前町赤神(石川県)赤い神の岬を守ってきた八ッの島は砕けて岩礁になったのか
733 黒崎=輪島市門前町剱地(石川県)ここはいちばん多い岬の名前がついた岬ですがなにか…
▼国土地理院 「地理院地図」
37度17分11.71秒 136度46分12.93秒 37度16分8.64秒 136度44分1.53秒
北越地方(2015/09/11?12 訪問)
タグ:石川県
先月、総持寺祖院を訪ねました。巌門にも行きました。
日本海の絶景ですね。
by kohtyan (2015-10-02 21:12)
@kohtyan さんが行かれた門前の総持寺祖院は、まだ「古寺古社フォト巡り」ブログには登場していないのですね。
国東半島は、岬めぐりもまだ残っていますが、いつになるやら。
by dendenmushi (2015-10-03 07:35)