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番外:新潟県立大潟水と森公園=上越市大潟区潟町(新潟県)潟の自然を活かした公園で潟の風景を偲びつつ… [番外]

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 そう、“潟(かた・がた)”とはなにかといえば、辞書などを引くと「ラグーン」というのがすぐに出てくるのだが、「新潟」の「潟」を想像するに、これではなんとなくピンとこない…。
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 信越本線の列車を降りた駅は「潟町」。ここならそれらしいイメージも…と、頭に入れた地図をなぞりながら道を探して行くと、駅から初めてその公園の看板を目にした。なにしろ、駅にも駅前にも、なんの情報もない。看板にひとつ、道案内のひとつもないのは意外だったが、まず十中八九というより十中の九・九は車でやってくるので、でんでんむしのように信越本線から来る人間などおよそ想定外で、無視してよい範囲なのだろう。
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 車で来る場合は、北側の道路から正門があるらしいが、へそまがりはそういう道は行かない。なるべく駅から近いルートを探して、信越本線の線路を陸橋で越え、住宅の間を抜けて北陸自動車道を橋で渡り、公園内に入る。入場無料だから垣根もゲートもない。歩いて行けばそこが「新潟県立大潟水と森公園」の中だった。
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 園内の写真を適当に並べて置くが、でんでんむしの想像では、公園としてきれいに整備はされているが、その多くはもとからの自然のままであったろうし、そこにこそ「潟」の風景があるのではないか、と考えたのである。
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 この付近にいくつもある大きな池のひとつ、鵜ノ池を中心にして、広い園地の中を歩いているとそれはほぼ合っているのではないかと思えてくる。
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 池の中に突き出た島の上には、古墳時代の円墳があるくらいだから、水と森は人々の生活の場でもあったのだろう。
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潟(かた)もしくは潟湖(せきこ)
湾が砂州によって外海から隔てられ湖沼化した地形。ただし完全に外海から隔てられたものはほとんどなく、ごく狭い海峡により外海とつながっているものが多い。したがって、ラグーンは塩湖である。
日本では北海道のサロマ湖、秋田県の八郎潟などがラグーンにあたる。
(ウィキペディア)
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潟 かた lagoon
砂州によって外海から隔離された海岸の湖。浅海の砂が沿岸流などによって移動して砂州が形成され,内側が湖になる。潟は浅く,波が静かで,海と通じる口が狭いものほど塩分が少い。土砂の堆積によって,次第に浅くなり,淡水化して,やがて湿地となり,ついに海岸平野の一部になる。
(ブリタニカ国際大百科事典 コトバンク)
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 ふたつの解説・定義を並べてみたが、「ラグーンは塩湖」と限定したものより、「ついに海岸平野の一部になる」という後者の解説のほうが、この場合ぴったりくる。
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 この上越市の海岸線付近の地形は、まさしく砂州により陸地の内側に水域が閉じ込められたか、という感じである。公園になっている鵜ノ池の周辺には長崎という横長に固まっている集落や、その周りにいくつもの新田の名があるのも、近代におけるこの辺りの開発過程を示しているようだ。
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 そして、この付近よりもずっと後から、同じような条件に川が加わってできた「潟」が、だんだんと陸地として固まってできたところが「新しい潟」「新潟」だったのではないか。
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 「番外:新潟の鉄道路線」の項で書いたようなことと合わせて考えてみると、それはほんとに“新しい”ことだったとわかる。
 ただ、断っておくがこれはでんでんむしの私見である。あえて申し述べるのは、「新潟」の語源・由来については、どうも確かなものがないようなので、それならばとどこにも書かれていない(と思う)新説を披瀝しておこうと考えたからである。
 「新潟」がいつからそう呼ばれるようになったか、その由来はなにか、については“信濃川河口に潟があったから”といったところでは共通点があるものの、“「方」が「潟」になった”とか諸説があってはっきりしない。いつから、という点でも一説では16世紀からというが根拠が明らかでない。はっきりしているのは、日米修好通商条約の結果、幕末に初めて公式に五港開港とされたひとつに「新潟」があることだけだ。

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 例によって、ChinchikoPapa さんからは、前項について「犀潟」の次の駅、「くびき」も気になる名称ですね。」とのコメントをいただいた。「くびき」というのは、犀潟から乗り換えて、六日町へ向かうほくほく線の次の駅名である。大池にも近く高田平野の東の終わりに近く、山に入って行く手前だが、周辺には駅名以外にその名を示すのは中学校と郵便局くらいしか残っていない。だが、そこらは2005年に合併して上越市に吸収されるまでは「頸城村」だったところで、現在は上越市頸城区となっている。
 いわゆる行政区画ではないが、かつて越後の国には「頸城区」があり、その範囲は柏崎の一部から糸魚川におよび、山側では妙高や十日町まで含まれていた。だが、「頸(くび)」が意味する地形的な特徴も「城」の意味も定かでなく、現在の地図上やネット情報からはなにひとつうかがい知ることもできない。
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▼国土地理院 「地理院地図」
37度13分45.49秒 138度20分54.65秒
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dendenmushi.gif北越地方(2015/07/02 訪問)

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タグ:新潟県
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