1254 寺泊岬・大河津分水路=長岡市寺泊野積(新潟県)200年の願いをやっと叶えた信濃川の放水路も85歳だから… [岬めぐり]
弥彦・燕三条・分水付近から行くのが、獅子ヶ鼻への最短距離だと思ったのは大間違いで、結局長岡まで戻って、翌日の早朝長岡駅前を出るバスに乗ってくることになった。それには、分水付近がちょうど新潟市と長岡市の境界線になっていることも、関係があるのかも知れない。
長岡駅前もビジネスホテルがたくさん軒を連ねているところをみると、ここが越後のあちこちに行くにも、新潟よりも便利がいいということがあるのではないか。
長岡とその周辺では、歩道部分に軒をつけたアーケードが発達している。これはもちろん、冬季の積雪対策なのだろう。
バスは、信濃川を渡り、その土手を通って、ひたすら北へ向かう。新潟から新幹線でいったん南の長岡まで戻った分、今度はV字型にバスでまた北上しているわけだ。
矢板などの古い町をつなぎ、周辺の集落を拾いながら走るが、これまた乗客は少ない。雨のせいばかりではないだろう。
分水はサクラがとてもきれいなところなので、前から一度行ってみたいと思ってはいたが、岬めぐりとの抱き合わせはむずかしい。分水の手前からバスは越後線の寺泊駅を経由して、海岸まで出るとまた北上するのだが、野積橋で大河津分水路を越える。
橋はかなり高いところにあり、ずっと下を流れる分水路の河口右岸についているのが寺泊岬という名前。これはもちろん地理院地図にはないのだが、地元には“寺泊岬温泉ホテル”などという表記が使われているので、あえて分水路と合わせて1本で項目に立てることにした。
分水というのは、文字通り信濃川の流れを2つに分けることである。もともとの信濃川は、与板の北から弥彦の山の東を流れていくのが本流だが、現在ではこの本流のほうが細く水量も少なくなっていて、分水から引かれた大河津分水路を流れるのがメインになっている。
分水から寺泊岬まで、国上山の南を若干弓なりに流れる9.5キロの放水路は、燕市と長岡市の境界にあるのだが、実際の境界線はもっと複雑に入り組んでいる。そのぎくしゃくとした線が昔の事情をしのばせるが、この分水路がつくられたのは、もうずいぶん古い時代のことである。
1931(昭和6)年に、22年の歳月をかけて完成したこの大工事には、実はもっともっと長い経緯と歴史があったようだ。
明治42年に本格的な工事が始まるずっと前、亨保年間から寺泊の本間屋数右衛門らの幕府への請願が始まっていたというのだ。亨保といえば徳川吉宗の時代だが、その頃からずっと信濃川の洪水に悩まされ続け、住民たちはオカミになんとかしてくれとお願いを繰り返してきた。治山治水は時の施政者の大きな課題であったが、その願いが聞き届けられるまでにはなんと200年もかかっているわけだ。
ただ、それが幕府の怠慢というだけではなく、暴れる信濃川を制御するだけの有効な土木技術をまだ持ち得なかったからだろう。
平常時には新潟方面へ生活用水やかんがい用水として必要な水量を流し、洪水時には分水路に設けられた可動堰によって、上流からの流れを日本海に流す。矢板より上流にもいくつもの調整堰も設けられた。当時の土木技術の粋を集めてつくられたこの分水路も、今ではもう寄る年波でぼつぼつ次の手を考えなければならないところにきている。
この上流の信濃川と分水路が分かれるところの写真は、「番外:新潟の鉄道路線=(新潟県)なんでこんなへんてこな形に線が引かれているのだろうと思ったことありませんか?」の項で使っているのだが、再録しておこう。
野積橋を渡りながら分水路を流れる水が、雨の日本海へ出て行くのを眺めていると、またさまざまな感慨も浮かび、また流れていく…。
幻の獅子ヶ鼻の代わりに、ここまできて分水路を見ることができたのは、まあよかった。
また帰りのバスを待って、坂井町から漁港を経て越後線の寺泊駅までやってきた。寺泊の駅は町からは随分離れてた淋しいところにある。ここから柏崎まで、越後線は海岸からは離れたところを走っている。
それは、次の出雲崎もまた同じで…。
▼国土地理院 「地理院地図」
37度40分6.85秒 138度46分37.59秒
北越地方(2015/07/01 訪問)
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