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番外:山居倉庫=酒田市山居町一丁目(山形県)本間家と酒井氏となかなか趣と貫禄のある倉庫と… [番外]

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 だいたいが、過去のことなど今さら何の意味もない、そーゆーことにこだわるのは愚だ、とする意見・主張はかなり根強くはびこっている…。過去に拘泥して耽溺するという弊害があると言えば、それにも一分の理がないわけではないが、嵩じて家だとか家系だとかルーツだとか先祖だとか、そーゆーものや、昔語りまでを否定するような傾向には反発がある。
 もともとでんでんむしは、そーゆーことにこだわるのがだ〜い好きなのである。自分がなぜ、今ここにいるのか、その不思議を考えると、どうしても昔のこと先祖のことなど思わないわけにはいかない。
 そもそも、過ぎた過去のことは忘れよう無視しよう、あるいはそれを自分の都合のいいように解釈してそこから学ばない、といった姿勢自体こそが愚者のものであり、大きな間違いなのではないか。
 ここでも自分とは縁もゆかりもない坂井家や本間家にも、ちょこっとだけ関心を向けてみたい。
 佐渡の岬めぐりに行ったとき(1097〜1149、2014/06〜10掲載)、羽茂本郷の付近を中心に本間氏の足跡が残されていることを初めて知った。鎌倉時代から戦国時代にかけて、佐渡の国を支配していた本間氏の名も相模国愛甲郡の出身地に由来するというから、これまた鎌倉幕府によって派遣された守護地頭がその勢力の始まりだった。
 その後、佐渡の本間氏は一族間の争いや会津の蘆名や出羽の最上と組んで反上杉の立場をとったため、上杉景勝の佐渡侵攻(1589)によって滅ぼされてしまう。このときに、上杉側についた一部の本間氏族が上杉の転封に伴って越後・会津・米沢と移っている。
 酒田の本間家は、そのようにして山形に根を下ろし、江戸時代には海運業から金融業に進出する。庄内や米沢で藩の財政を支えるほどの豪商になった。
 徳川政権の要職を占めてきた酒井氏は、三河以来の譜代ではあるが、江戸時代に作成された系譜ではそのルーツを三河の海東氏の庶流としている。これは大江広元の五男の大江忠成を開祖とするもので、どうもその頃の系図を飾り立てる風潮に乗ったものと思われる。というのも、この時期に幕府が諸家に命じて家系図の提出を求めたことがあり、このときにおおあわてで体裁を繕おうとして、ムリヤリ清和源氏にくっつけたりしたものも多かった。その後、武家以外に広がり商売でこれを行なう者も現れ、家系図の信用を落とす一因にはなっているが、さまざまな資料を記録して残したという功績の一面もある。
 だいたいが、徳川譜代が外様大名の系譜(毛利は広元の四男が祖)と同じ大江広元にルーツを求める必要があるのか、飾り立てるにしてもピントがはずれていておかしいだろう。
 出羽庄内藩に移封された酒井家は、老中を長く勤めたがそのためもあって藩の財政は窮迫していたので、領内酒田で経綸の才があった本間光丘に藩の財政再建を託すことになり、「本間様には及びもないがせめてなりたや殿様に」と歌に謳われることになる本間様と殿様はこうしてつながる…ということになる。
 その結果庄内藩の財政もなんとか立て直しに成功し、本間家も莫大な利を得るが、一地方の大地主で事業家ではあったが財閥になることもなく、結局戦後の農地解放で没落の憂き目をみる。
 本間美術館には、前に酒田へ来たときに行っているので、今回は山居倉庫(さんきょそうこ)である。
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 もともと当初計画にはなかったのだが、定期船乗り場と酒田駅のバス便が悪く、結局行きも帰りも歩くことになった。幸い、帰りの「いなほ」の発時刻までは少々時間があったので、同じ歩くなら少し遠回りをして寄り道をすることにしたのだが、それを決めたのは、船の待合室と海鮮市場の間に貼ってあった山居倉庫の観光ポスターを見てからである。これも吉永さんのJRの広告にあったな。
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 そうだよね。これ有名だもんね。酒田のシンボルだものね。
 せっかくきたんだから、ちょっと見て行こうと、港からてくてく酒田港に流れ込んでいる新井田川に沿って東へ。
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 新井田川と最上川に挟まれた中州であったと思われるこの付近には、亀ヶ崎という地名が広く残っている。この付近までは岬の形で残ってきた地面で、その先の山居町の辺りは山居島と呼ばれる中洲で、地盤もまだ安定していなかったのだろう。
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 土盛りから始めた倉庫づくりは、思いの外新しく、1893(明治26)年から始まっている。しかし、それを建てさせたのが酒井家だったというので、ちょっと驚く。倉庫の管理・運営も酒井家が行なっていたというのだが、戊辰戦争では敗北して後に恭順したとはいえ、奥羽越列藩同盟の一翼を担っていたはずの庄内藩酒井家が、明治も半ばに至るまでこの地でどういうわけでそういう役割を果たすことができたのだろう。
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 4年かけて完成した14棟の酒田米穀取引所の付属倉庫は、なんとかのロケに使われたとか、そんなことで観光名所になっているようだが、今でもその大部分は現役でその機能を発揮しているそうである。
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 本間家の旧本邸の横を抜けて、酒田駅に到着。これで粟島・飛島とふたつならんだ日本海離島の岬めぐりはおしまいです。
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▼国土地理院 「地理院地図」
38度54分42.98秒 139度50分12.08秒
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dendenmushi.gif東北地方(2015/06/30 訪問)

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タグ:山形県 歴史
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