SSブログ

1245 慈仙寺の鼻=広島市旧中島町(広島県)まさかあの日から70年も生きるとは想像もできなかった [岬めぐり]

jizennjinohana-7.jpg

 過去は、わたしたちとは無縁ではなく、単なる思い出の対象なのでもない。「そこ」までたどり着けたなら、わたしたちの現在の意味を教えてくれる場所なのだ。
(高橋源一郎「慰霊の旅」2015/07/22 朝日新聞「戦後70年」シリーズより一部抜粋)
 

 “そんなぁ、これで優勝なんてよく恥ずかしくもなくいえたもんだなぁ!” いつもぶつくさいいながら遠くからCS放送で広島カープの試合を見ていたが、開幕からちぐはぐな戦績ばかりが目立ち、いっこうに事態は改善される兆しもない。
 同じ事の繰り返しにいよいよファンのイライラもピークで、監督やコーチへの批判や球団の責任がとやかく言われ始めている。ほんと、誰かに「まどうて」ほしいよ。それでも今シーズンは、地元マツダスタジアムは毎試合たくさんの観客が詰めかける。負け続けてもなかなか減らないのが、これまでと違うところで黒田効果のおかげもある。
 これまでは、8月6日には市民球場が休場で使えなかったので、この日に広島で公式試合が行なわれることは稀であったのだ。広島にとっては特別な日の今日は、ピース・ナイター。いつもの「Carp」の代わりに「PEACE」、背中には「HIROSHIMA」と「86」の背番号で統一された特別なユニフォームを着用して、カープの選手はプレーをすることになっている。だが、全国ではCSでしか放送はされないので、ほとんどの人はそれをみることはできないだろう。この日の予告先発は、このマツダスタジアムの近くで生まれ、カープ女子の母親に連れられて、市民球場にカープの応援に行っていたという新人投手である。お相手くださる阪神タイガースの選手ならびにファンのみなさん、そういうわけですけぇよろしゅうたのんます。
 元祖カープ女子を募集したら最高齢の104歳を含む1000人以上の応募があったそうだが、球団創設以来のカープファンであるでんでんむしも、元祖カープ男子のひとりである。いつも燃えさかる炎のように赤く染まったマツダや神宮や横浜のスタンドを見ていると、でんでんむしにとっては「ここ」もその「場所」であるような気がしていつも見ているのだ。(安直にこじつけてごめんね、源ちゃん。)
jizennjinohana-6.jpg

 2015年の8月6日の式典では、市長は平和宣言に「まどうてくれ」という言葉を入れるという。これは広島弁で「もとに戻してくれ」という意味だと、全国紙では翻訳しているが、「弁償してくれ」「責任とってくれ」という意味もある。日常的に使われる場合は、そこまでの強い意味は薄められるが、やり場のない怒りや理不尽さ、責任ある者に対する不満の表明に、よく使われていた。
 70回目の広島原爆の日を迎える今日は、特別に一項目を設けた。しかしながら、70年前のこの日のことについては、これまでもいくつか書いてきた。また、まったく新しいことを書くというわけにもいかないので、まずはリンクボタンをつけることを許していただきたい。
 そして、これを番外ではなく、岬めぐりの本編として、むりやりだが一項目を挿入することにした。
 

「ある編集者の記憶遺産」から抜粋
hirosimanatu185.jpg

□13:昭和20年・広島の夏の日=その1 どんなささいなとるにたらないような体験..

□14:昭和20年・広島の夏の日=その2 天候条件がよかったから原爆は広島を選ん..

□15:昭和20年・広島の夏の日=その3 宮島さんの神主がおみくじ引いてもわから..

□16:昭和20年・広島の夏の日=その4 米軍機が撒いていった警告ビラをみた祖父..

□17:昭和20年・広島の夏の日=その5 広島原爆の日が何日か知っている人は4割..

□18:昭和20年・広島の夏の日=その6 8月6日あの巨大な極彩色の雲の下にこそ…..

□19:昭和20年・広島の夏の日=その7 キノコ雲も街を焼き尽くした火も消えてか..

 これらの項目を改めて公開したのは2012年の夏であったから、そう古い昔というわけではない。その当時から現在まで変わらず「きた!みた!印」をつけていただいている、xml_xslさん、ハマコウさん、ビタースイートさん、ryo1216さん、(。・_・。)2kさん、okin-02さん、TBMさん、シラネアオイさん、Minkyさん、ChinchikoPapaさん、だいだらぼっちさん、八犬伝さん、りんこうさん、裏・市長さん、cafelamamaさん、smikさん、yamさん…常連さんのみなさん、またかと思われるでしょうがよろしくご了解ください。

jizennjinohana-5.jpg
 今年の春には、それこそ開館当初以来なので60年ぶりかで、広島平和記念公園にある平和記念資料館に行った。石垣島の孫が広島に行きたいというので、連れて行ったからである。大勢の人、とくに外国人が多くてごった返していたが、なんとなく物足りなさだけが残った。
 自分だって、たいした経験をしているわけではないが、資料館の展示から原爆のことを想像するのはむずかしかろう。
 名前からして「資料館」と言っているのだから、それでいいということもできようが、ほとんどパネル展示ばかりで、直接訴えるものがない。被災者の姿を人形にして再現していたのが、“気持ち悪い”とかいった声に押されて縮小したとかいう話もあったようだが…。(2017年にはついにこの人形たちは撤去されてしまう。)
 参観者も、ぎっしり並んだそれらパネルなどを全部読むというわけでもなく、ただ黙々とゆっくり前の人に続いて流れてくという感じであった。
 とにかく、70年経ったからというよりは、原爆の痕跡やその実情を伝え残すことも、なかなか容易ではないと思った。
jizennjinohana-2.jpg
 
 広島の町は、来るたびにきれいになっている。あの頃、「70年間は草木も生えぬ」(あれっ! 60年だったかな?)と大まじめに言われたものだが、それが真実でなかったことは、すぐに証明された。
 2015年の春休みには、70周年を前にして原爆ドームも平和記念資料館も改修工事中で、ドームは網をかぶっていたし、資料館は東館が閉鎖で入口専用になっていた。2015年夏のNHK調査では、広島原爆の日を正確に知らない人は70%であったと伝えられる。もちろん、あの戦争の惨禍は、原爆だけのことではなく、広く太平洋各地から中国大陸、日本全国多方面にわたる…。
jizennjinohana-3.jpg
 いまは、平和記念公園となっている元安川と本川に挟まれたこの一帯は、原爆が落とされる前は中島町という繁華な町で、家々がぎっしりと軒を連ね、中央を大通りが走っていた。この街並みを古い記録を調べて地図を復元するという作業も何年か前にあったはずだが、この町は広島という大きな三角州のなかの中央で、また細長い島になっている。(2016年公開の「この世界の片隅に」では、この中島町の街が描かれていた。)
jizennjinohana-1.jpg
 その北の先端が、T字形の相生橋につながっていて、上空から見てわかりやすいこの橋が、原爆投下の目標とされた。その先端がちょうど岬のようになっているわけで、そこには大きなお寺があった。その名を「慈仙寺」といった。広島の寺は浄土真宗が多いが、寺町からも外れていたここは浄土宗で、現在その寺は再興され江波のほうに移っていると聞いた。
 壊滅した寺の後には、何年かのあいだ大きな土まんじゅうの供養塔もできていたが、その島の先っちょを寺がなくなった後もずっと「慈仙寺の鼻」と呼んでいた。われわれが呼び習わしていた読みはもっぱら「じぜんじのはな」だったが、正しくは濁らない「じせんじのはな」だったようだ。
 広島三角州の中央に、ちゃんと岬があったのだ。地図に記名はないのだが、そういうわけでここは特別に拡大解釈して1245項とする。そういう岬の呼び名が残っていたということは、広島の七つの川は水運の役目も大きかったからだろうか。
 (下の地図では、中央右寄り下の地図が切れる辺りが、でんでんむしの生まれた家があったところ、中央右寄り上の城の北がでんでんむしの通った高校である。)

▼国土地理院 「地理院地図」
34度23分44.59秒 132度27分8.54秒
jizennjinohanaM.jpg
dendenmushi.gif2015/08/06 記

にほんブログ村 歴史ブログ 歴史情報へ


タグ:広島県
きた!みた!印(43)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:地域

きた!みた!印 43

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました