1242 渡鼻=岩船郡粟島浦村(新潟県)牧平は粟島の野馬放牧場のひとつだったようでだから馬が渡るからか? [岬めぐり]
これまたまったく情報のない岬で、国土地理院の地図でも表記がない。けれども、粟島マップでは八ッ鉢鼻と鳥崎の中間、西海岸の北端に近い北寄りに、読み方も定かでないその名が付してある。
そこも小さな岩の出っ張りがあるだけで、とくに岬のような目立つ地形とは言い難い。そして、そこから粟島の北端をぐるりと回って、島の北東端である鳥崎まで、いくつもの細かいでこぼこと岩礁を伴いながら、西海岸から東海岸へと向かう。
仏崎から北は、陸地もだんだんと高い山(といっても300メートルにも足りない)がなくなり、50〜70メートルくらいの比較的緩やかな斜面になる。
地理院地図では、その一帯に「牧平」という名を冠している。その名からは、このあたりが昔からの牧場だったことが想像できる。
粟島にかつては野馬がいたこと、それを観光資源のひとつとして野馬公園を中心に復活させようという試みも続いていることは「1231 瀬ノ鼻」で簡単に触れていた。
先にも仏崎のところで紹介した「あわしま風土記」から、野馬に関する情報を拾ってみよう。まず、「粟島図説」(小泉其明)という史料には、次のような記述があるという。
「此島に古昔より牧の馬あり。島の上ミ下凡廿余町ありて、柴を以て囲廻し、今年より三ヶ年の中、上の囲に馬を放ち、下の囲には耕作し、年限果て後、馬を下の囲へ逐遣りて、その址に耕作す。昔は一年交りなれども、今は三年交りになりしといへり。さて、馬数は古昔より五十匹前後にして、過分の増減なく、常は笹を喰ふて食料とし、冬に到れば笹の中に身を隠し、また礒に出て礒菜を喰ふ。本国にては島馬は小なりと聞伝へけれど、見る処さにあらず。毛色はクロ・クリゲばかりにして、高さは本国の馬に等しく、全体肥太りて見え、爪の短きは折節礒に出て岩石に研といえり。ただ別に見ゆるは、尾のすりきれて短きばかりなり。さばかり馬は多けれど、耕作は人力にてつとめ、駄荷負はする事もなければ、馬を家に飼ふ事無しといへり。」
渡鼻付近の牧平についても、放牧場(サクバと呼ばれた)であったようで、風土記ではこれを解説していて、ちゃんとそこに言及があった。馬と島民の暮らしとかかわり方が、とてもおもしろい。
「粟島図説」にある放牧場はサクバと呼ばれ、北は牧平、中部は丸山、南はアカクサバタケにあった。馬は一年毎にサクバを移動させ、空いたサクバは焼畑にして麦を作った。このサクバからサクバへ馬を追う行事は4月頃行われた。この行事をウマカケまたはハナミといい、この時は家内中がご馳走をもって見物に出かけたものだという。
野馬は、脇川本家、本保本家、神丸七平、中村又平の4軒がそれぞれ4頭ずつ所有していて、自家の馬と他家の馬を区別するために耳に印をつけて放牧した。田植え時期になると、サクバから連れてきて代掻きをさせ、仕事が終わるとまた山へ返した。
この粟島の野馬が、いつからここにいたのかはよくわからない。伝説をもってその根拠とするのはムリがあるが、こんな話もある。
粟島の馬はいつの時期に入ってきたものか不明である。伝承では、源義経が奥州へ落ち延びる途中、海府の馬下(村上市)まで来たとき、道が険しくなり馬とともに進むことができなくなったため、馬を解き放して通過したが、放たれた馬は海を泳ぎ渡って八幡鼻に着き、野馬になったという。八幡鼻近くのナデコの浜にある馬蹄石は、その際の馬の足跡であると伝えられている。
一方、村上市馬下八幡神社由緒書によると、
「源頼義、安倍頼時ヲ征討ノ際、其ノ子義家ヲシテ勝ヲ石清水八幡宮ニ祈リ、分霊ヲ棒持シテ出征ス。奥州平定ノ後、分霊守護ノ従者病ニ罹リ、当村井上小松太夫ノ家ニ宿シ留ルコト久ウシテ終ニ死ス。依テ其ノ分霊ヲ勧請シ、社殿ヲ建テ地主神トス。又源義経奥州へ潜行ノ節、当社へ鞍馬ヲ献ズ。其ノ馬ヲ粟島ニ渡ス。」
とあり、伝説の夢を誘ってくれる。
すると「渡鼻」も馬が渡るということなのかな、と思ったりするけど、それは南の八幡鼻だと、はっきり言っているしねぇ。
近くには「舟カクシ」もあるから、なにかありそうな場所ではあるんだけれど…。
▼国土地理院 「地理院地図」
38度29分15.51秒 139度15分3.10秒
北越地方(2015/06/29 訪問)
タグ:新潟県
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