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番外:じいちゃんがこどもだった頃=孫たちに語る70(〜65)年前のことなどを(その1) [番外DB]

 「人間一生のうちにこんなに変わるんだなぁ」と思うことがある。70年前に戦争が終わったときには、じいちゃんはまだ小学校へ行く前だった。その頃の日本は、戦争に負けてすべてが崩れ去り、焼け跡と瓦礫(がれき)のなかから、やっとこさ立ち上がろうとしていたんだな。広島も原爆の跡で、まだまだ混乱していたんだろうね。
 それから日本が独立をするくらいまでの間、つまり小学校へ行っていた頃だな。じいちゃんが小さなやせっぽちで色黒のこどもだった頃のことを、話しておこう。今のきみたちの生活や周りのことと比べてみてごらん。
 想像を思いっきり広げてみてごらん。君たちは体験していないことだが、じいちゃんは体験してきた70~65年くらい前のことを…。

・遊び
 ひとりで家の周りの草や花や虫や、川や田んぼの小さな生き物を相手に遊ぶことが多かったかなあ。トンボやチョウやキリギリスなんかを取ったり…。もちろん、友達もいたし、近所のこどもたちが集まっては遊んだ。そういうときの遊びは、やはりかくれんぼやおにごっこ、その変形でかんけり(これはよくやった)などが中心だったが、少し大きくなると三角ベースやロクムシといった、ボールを使った遊びも多くなった。
 ラムネ(ビー玉)やベッタ(めんこ)とか、釘立てなんて遊びにも熱中したなあ。それと、ニッサン(日月ボール)ね。
 学校へ行くと、広い校庭をいっぱいに使って、団体でする遊び(駆逐水雷)とかSトンとか、それにやっぱりロクムシは流行ったなあ。
 名前を聞いても、ほとんどは君たちの知らない遊びだと思う。
 
・小学校通学
 じいちゃんの通った小学校は、少し遠かったけど、毎日歩いて通った。その通学路(今ではそういうがその当時はそんな呼び方もしていなかった)は、決められていたわけでもないので、いつも気まぐれで違った道、いろんなコースを通っていた。
 その通学路では、国道2号線と山陽本線の線路に沿って、またそれを越えて行かなければならなかったので、国道を通る車や線路を走る汽車も、遊びの道具にしていたくらいで、途中には田んぼや畑もあったし、道草ばかり食いながら通っていたもんだ。その頃は、みんな大人たちも食べることに精一杯で、うるさいことは言われなかったし、まあほったらかしのようなもんだったんだろうね。
 今から思うと危ないとすぐ禁止されるようなこと(たとえば、線路のレールの上をどこまで落ちないで歩けるかとか)も、平気でやっていたんだ。そう、線路に柵なんてなかったしね。
 
・汽車と馬車
 その頃はまだ今のような電車ではなくて汽車ばかりで、客車も貨車も蒸気機関車が引っ張って走っていた。汽車が通る時刻は決まっているわけだから、それ以外の時間は危なくはないんだけどね。蒸気機関車が走るのをみるのは好きだったなあ。
 国道も、通る車の数は少なかったので、交通信号機や横断歩道さえもなかった。乗り合いバスも走り始めていたが、初めのうちは本数も少なかった。荷物を運ぶにはまだ荷馬車や牛車も使われていて、のんびりとぽくぽく歩いていたし、国道にはそのウンチがよく落っこちていたけど、これはさすがに小学校の終わり頃には見かけなくなった。
 バスはね、エンジンが前に突き出た形のボンネットバスというやつでね。町まで行くときにはこれに乗った。運転手さんの後ろに立って、運転するのをみるのがおもしろかった。今のようなワンマンやICカードではなく、必ず運転手さんのほかに車掌さんがいて、切符を売ったり回収したりしていたね。
 アナウンスもないから、車掌さんが大きな声で停留所を告げていたんだ。バスはガソリンのニオイが独特だったような記憶があるけど、それも小学校の終わり後の記憶だろうね。
 そうそう、バスと言えばこれも同じ頃だったと思うけど、一時期広島ではトレーラー・バスというのもたくさん走っていたね。運転車両の後ろに乗客車両がつながっていたけど、あれはなんだったんだろうと、今でも思出すことがあるよ。
 広島の市内は市電(路面電車)が走っていたけど、それにはあまり乗る機会はなかった。 

・道路
 始めの頃には、国道もまだ未舗装(みほそう:コンクリートではない土)のところが残っていたくらいで、それから外れたすべての道が、土のままがむき出しのままだった。
 そういう道路ばかりだったから、石ころが頭を出して隠れていたり、でこぼこで、雨が降るとあちこちに水たまりがたくさんできる。土が軟らかいところでは泥でぐちゃぐちゃのぬかるみになるので、そういうところを避けながら歩かなければならない。
 下水などもなかったから、道は雨水の流れる道でもあったわけで、自然に道の中に川ができたりしていた。

 続くよ。

dendenmushi.gif 2015/06/29 記

関連リンク:
□20:ふるさとはと問われればそれはやはり「青崎」か?…=安芸郡府中町青崎東(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
□21:山陽本線と国道2号線が青崎小学校への通学路…=広島市南区青崎1-2丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]
□22:青崎小学校と貸本屋と東洋工業と…=広島市南区青崎1丁目(広島県) [ある編集者の記憶遺産]


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タグ:歴史
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コメント 2

ハマコウ

社会科の授業で活かせます。
未舗装の道、懐かしいです。我が家の前の道も 小学生の頃まで未舗装で雨の後はぐちゃぐちゃでした。
でこぼこになって水たまりがすぐにできるのも今となっては思い出。歩きたいとは思いませんが。
by ハマコウ (2015-06-29 18:52) 

dendenmushi

@ハマコウさん、是非社会科の授業で…。(^_^;
以前から「お父さんお母さんがこどもだった頃」というのはありましたね。
ところが、今頃のだとお父さんお母さんの時代も、今のこどもたちの生活も、ほとんど違いがないと思うのです。
だからじいちゃんばあちゃんのほうがいい。離れて暮らすじじばばも多いはずなので、たまにはこいうテーマで、接触があると、一石二鳥ですからね。
by dendenmushi (2015-06-30 20:04) 

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