番外:沖縄本島の岬めぐりと沖縄戦まとめ(沖縄県)ざわわざわわ…とざわつくところいたむこころ… [番外]
沖縄本島の岬めぐりでは、まだひとつふたつ追加しなければならないところもあるが、今回の北部の岬めぐりで大筋でまとめることができる。
それぞれ、項目番号をマッピングしてみると、やはり南部には岬は少なく、その多くが北部に集まっている。
その理由のひとつは、中南部では山がないこと、また島の成因が異なることも、大きく影響しているのではないかと思われる。
だが、それも考えてみれば理由をつけるための理屈のようなものでしかないのである。
残る本島の岬は、今回積み残しになった石川西海岸の空寿崎と、南端で喜屋武岬の東にある荒崎である。空寿崎は市街地の岬で、荒崎は喜屋武岬と平和祈念公園の間にある。平和の礎(いしじ)には行っているので、荒崎も項目にあげたと思い込んでいたが、探してみるとそれがなかった。
離島では、慶良間諸島や久米島や渡嘉敷島も、まだ残っている。
だが、ここまでの軽いまとめでも、改めて沖縄の戦争と基地の問題はどうしても意識せざるを得なかった。
常にそれらのことを考えながら、岬をめぐっていたので、その断片はそれぞれの岬に託してふれてきたこともある。
たまたま、2015(平成27)年は沖縄戦から数えても70年…。
たまたま、このシリーズ連載を続けてきたのが、4月から6月と、ちょうど70年前の沖縄戦の時期とも重なっている。
ごくごくおおまかに、この3か月足らずの間にこの島で起こったことをできるだけ想像してみるよう努力しただけでも、これが戦争なのだ!ということがわかるだろう。
でんでんむしも原爆被災者だが、空から大きな新型爆弾がひとつの町を壊滅させるのも怖いが、この地上で戦車が走り、兵隊が銃を打ち、ガマと呼ばれる琉球石灰岩がつくる無数の洞窟に火炎放射器を放つ…。そういう戦争も恐ろしく悲惨である。
ただ、こちらはそれを直接体験したわけではないので、記録からそのイメージをふくらませてみるしかない。それについて具体的に書くことはできないので、国内唯一の地上戦(これについては硫黄島などもあるから唯一ではない、という指摘もある)が行なわれた沖縄戦の記録は、探せばいくつかある。最近では沖縄タイムス、首都大学東京・渡邉英徳研究室、GIS沖縄研究室が共同制作したデジタルアーカイブがある。「沖縄戦デジタルアーカイブ~戦世からぬ伝言(いくさゆーからぬちてーぐとぅ)」は、「沖縄戦を未来に継承するため、証言、データ、地図など、それぞれが蓄積してきた技術とコンテンツを駆使し」たというもので、今なおデータは増殖中だという。
ただし、このデータが重すぎるのか、つくりかたが悪いのか、でんでんむしのコンピュータ環境では読み込みの時間がかかりすぎて、どうにもならない。最初のマッピングだけで延々時間がかかってしまって、まったく実用にならなかった。ところが、iPadで見るとちゃんと動いた。どうしてそうなるのかわけがわからないが、「取り扱いに注意」という条件付きで、比較的入りやすそうな沖縄タイムスのサイトに、いちおうそのリンクを貼り付けておこう。(ここからでも、アーカイブスへ入るときには要注意かも。0のオッサンがツブセとか言ってるらしいけど、ガンバレ!オキナワの新聞。)
詳しい証言はそちらにゆだね、ここではアメリカ軍の侵攻速度・日付けで想像しながら追ってみよう。
約20万人もの死者を出したという沖縄戦だが、そのうち12万人以上が沖縄県民で、さらにその9万4000人は軍人や軍属ではない一般人であったという。
アメリカ軍の沖縄攻撃は、1945年の03/26、まず慶良間諸島への攻勢で始まった。日本軍は予想していなかったというが、ここを占領して海上から沖縄本島攻撃に備える足がかりにするというのは、至極当然の作戦とも言える。
そうして、04/01を期して上陸作戦を敢行したのは、残波岬の南に延びる中西部の海岸線であった。日本軍が水際防衛作戦を取らなかったので、上陸自体はたいした抵抗も受けることなく行なわれ、嘉手納や読谷にあった飛行場も占拠された。のみならず、04/03には早くも東海岸に進出し、奥武岬のある中城湾一帯を抑えた。
これにより、沖縄本島と日本軍は完全に南北に分断されてしまう。ただでさえ指揮命令系統や作戦などにも問題の多かった日本軍の沖縄防衛計画は、これでほぼその破綻がはっきりみえてくる。
以後は04/04から08までの間に、アメリカ軍は北部への侵攻を続けて辺野古崎から名護まで到達し、04/13には最北端の辺土岬に達している。
一方、アメリカ軍の沖縄本島南部へ向けての侵攻は、04/08のラインで、いったんストップしている。それから、05/21の首里に迫るまでに40日以上かかっている。首里城と那覇市街から知念岬の南へ進出したのは06/03である。
それからも本島南部への侵攻には時間がかかっており、現在ひめゆりの塔や健児の塔などがある摩文仁の丘付近、平和の礎などがある最南端地区へは06/20に達している。アメリカ軍の侵攻に時間がかかったということは、すなわち激戦地であったということで、南部地域では一般市民の死亡率が宜野湾市で26.9%、浦添市で44.6%、西原町で44.6%、糸満市で36.9%に達していたという。崖から多くの住民(主に女性)が投身した本島最南端の喜屋武岬にアメリカ軍が到達できたのは、06/21のことであった。摩文仁で牛島司令官らが自決したのが06/23。この日をもって日本軍の組織的戦闘が終結したとして、後にこの日が沖縄慰霊の日として制定された。その日は、米軍西海岸上陸から84日目のことであった
上記の、アメリカ軍の侵攻日付けと犠牲者数、市民死亡率は、2015/06/18の(あの0のオッサンが「本当につぶれて欲しいのは…」とご指名の)朝日新聞朝刊特集「戦後70年」の記事によった。
▼国土地理院 「地理院地図」
26度21分20.07秒 127度46分3.23秒
沖縄地方(2015/04/04〜08 訪問)
それぞれ、項目番号をマッピングしてみると、やはり南部には岬は少なく、その多くが北部に集まっている。
その理由のひとつは、中南部では山がないこと、また島の成因が異なることも、大きく影響しているのではないかと思われる。
だが、それも考えてみれば理由をつけるための理屈のようなものでしかないのである。
残る本島の岬は、今回積み残しになった石川西海岸の空寿崎と、南端で喜屋武岬の東にある荒崎である。空寿崎は市街地の岬で、荒崎は喜屋武岬と平和祈念公園の間にある。平和の礎(いしじ)には行っているので、荒崎も項目にあげたと思い込んでいたが、探してみるとそれがなかった。
離島では、慶良間諸島や久米島や渡嘉敷島も、まだ残っている。
だが、ここまでの軽いまとめでも、改めて沖縄の戦争と基地の問題はどうしても意識せざるを得なかった。
常にそれらのことを考えながら、岬をめぐっていたので、その断片はそれぞれの岬に託してふれてきたこともある。
たまたま、2015(平成27)年は沖縄戦から数えても70年…。
たまたま、このシリーズ連載を続けてきたのが、4月から6月と、ちょうど70年前の沖縄戦の時期とも重なっている。
ごくごくおおまかに、この3か月足らずの間にこの島で起こったことをできるだけ想像してみるよう努力しただけでも、これが戦争なのだ!ということがわかるだろう。
でんでんむしも原爆被災者だが、空から大きな新型爆弾がひとつの町を壊滅させるのも怖いが、この地上で戦車が走り、兵隊が銃を打ち、ガマと呼ばれる琉球石灰岩がつくる無数の洞窟に火炎放射器を放つ…。そういう戦争も恐ろしく悲惨である。
ただ、こちらはそれを直接体験したわけではないので、記録からそのイメージをふくらませてみるしかない。それについて具体的に書くことはできないので、国内唯一の地上戦(これについては硫黄島などもあるから唯一ではない、という指摘もある)が行なわれた沖縄戦の記録は、探せばいくつかある。最近では沖縄タイムス、首都大学東京・渡邉英徳研究室、GIS沖縄研究室が共同制作したデジタルアーカイブがある。「沖縄戦デジタルアーカイブ~戦世からぬ伝言(いくさゆーからぬちてーぐとぅ)」は、「沖縄戦を未来に継承するため、証言、データ、地図など、それぞれが蓄積してきた技術とコンテンツを駆使し」たというもので、今なおデータは増殖中だという。
ただし、このデータが重すぎるのか、つくりかたが悪いのか、でんでんむしのコンピュータ環境では読み込みの時間がかかりすぎて、どうにもならない。最初のマッピングだけで延々時間がかかってしまって、まったく実用にならなかった。ところが、iPadで見るとちゃんと動いた。どうしてそうなるのかわけがわからないが、「取り扱いに注意」という条件付きで、比較的入りやすそうな沖縄タイムスのサイトに、いちおうそのリンクを貼り付けておこう。(ここからでも、アーカイブスへ入るときには要注意かも。0のオッサンがツブセとか言ってるらしいけど、ガンバレ!オキナワの新聞。)
詳しい証言はそちらにゆだね、ここではアメリカ軍の侵攻速度・日付けで想像しながら追ってみよう。
約20万人もの死者を出したという沖縄戦だが、そのうち12万人以上が沖縄県民で、さらにその9万4000人は軍人や軍属ではない一般人であったという。
アメリカ軍の沖縄攻撃は、1945年の03/26、まず慶良間諸島への攻勢で始まった。日本軍は予想していなかったというが、ここを占領して海上から沖縄本島攻撃に備える足がかりにするというのは、至極当然の作戦とも言える。
そうして、04/01を期して上陸作戦を敢行したのは、残波岬の南に延びる中西部の海岸線であった。日本軍が水際防衛作戦を取らなかったので、上陸自体はたいした抵抗も受けることなく行なわれ、嘉手納や読谷にあった飛行場も占拠された。のみならず、04/03には早くも東海岸に進出し、奥武岬のある中城湾一帯を抑えた。
これにより、沖縄本島と日本軍は完全に南北に分断されてしまう。ただでさえ指揮命令系統や作戦などにも問題の多かった日本軍の沖縄防衛計画は、これでほぼその破綻がはっきりみえてくる。
以後は04/04から08までの間に、アメリカ軍は北部への侵攻を続けて辺野古崎から名護まで到達し、04/13には最北端の辺土岬に達している。
一方、アメリカ軍の沖縄本島南部へ向けての侵攻は、04/08のラインで、いったんストップしている。それから、05/21の首里に迫るまでに40日以上かかっている。首里城と那覇市街から知念岬の南へ進出したのは06/03である。
それからも本島南部への侵攻には時間がかかっており、現在ひめゆりの塔や健児の塔などがある摩文仁の丘付近、平和の礎などがある最南端地区へは06/20に達している。アメリカ軍の侵攻に時間がかかったということは、すなわち激戦地であったということで、南部地域では一般市民の死亡率が宜野湾市で26.9%、浦添市で44.6%、西原町で44.6%、糸満市で36.9%に達していたという。崖から多くの住民(主に女性)が投身した本島最南端の喜屋武岬にアメリカ軍が到達できたのは、06/21のことであった。摩文仁で牛島司令官らが自決したのが06/23。この日をもって日本軍の組織的戦闘が終結したとして、後にこの日が沖縄慰霊の日として制定された。その日は、米軍西海岸上陸から84日目のことであった
上記の、アメリカ軍の侵攻日付けと犠牲者数、市民死亡率は、2015/06/18の(あの0のオッサンが「本当につぶれて欲しいのは…」とご指名の)朝日新聞朝刊特集「戦後70年」の記事によった。
▼国土地理院 「地理院地図」
26度21分20.07秒 127度46分3.23秒
沖縄地方(2015/04/04〜08 訪問)
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