1227 赤丸岬=国頭郡国頭村字辺土名(沖縄県)村の4分の1は米軍の演習地でこの岬にも米軍の保養施設があるという [岬めぐり]
沖縄本島の北端に位置する国頭村(くにがみそん)を、東海岸を北へ、そして西海岸を南に、ぐるっと一回りする順番で岬を拾ってきた。
その順でいうと、村内で最後の岬は、辺土名(へんとな)に突き出している赤丸岬である。
山の間に流れる小さな川の河口に開けた沖積に、ぽつぽつと集落が点在し、ほとんど山の上のほうを走るバスからは見えない岬が多かった県道70号線の東海岸に比べると、国道58号線の西海岸は終始海岸沿いの明るく開けた道で、海岸線のでこぼこはそれなりに小刻みにあるものの東ほど大きくもなく、したがって岬も辺戸岬から赤丸岬までまったくない。
国頭村の西南の端にある辺土名は、山地と森に覆われたこの村では、ほとんど唯一の広く開けた平地で、集落としても村ではいちばん大きく、当然村役場もここにある。
名護から辺土名までは、バス会社の路線バスがあるが、ここから北へは先に紹介している国頭村営バスのお世話にならなければらない。そのバス停も村役場のそばにある。トイレを借りに役場のなかに入ってみると、別棟の選挙管理委員会の隣りに「世界自然遺産対策室」という小さな看板を掲げた部屋がある。
開いたドアから通りがかりにみると数人の職員がデスクでコンピューターの画面に向き合っていた。きっとヤンバルの森は、それにふさわしい多様な動植物を抱えた貴重な自然がいっぱいなのであろう。
だが、そこでまた思い出してしまう。この村の面積の4分の1近くは、アメリカ軍の演習地・訓練場になっているのだということも…。
辺土名周辺の平地には、兼久・西平・奥間・桃原・鏡地(かがんぢ)・半地・といった地区があるが、それらはみな奥間川(比地川)や宇良川その他の幾筋もの小さな流れが協力してつくりあげたと考えられる、陸繋砂州のうえに発達している。
つまり、桃原の丘と赤丸岬のコブは、かつては島だったと思われ、それらが砂州で陸続きになってできたのが辺土名周辺の平地である。その中心である辺土名の集落は、その平地のいちばん北の端に固まっている。
国道58号線はこの陸繋砂州の山寄りを走っているので、赤丸岬は南の名護から北の辺土名へ向かって走る前方に見えるのと、反対に北側の漁港付近から見えるのとふたつの目線がある。
岬のコブには大小5つもの金平糖の角のような出っ張りがあるが、赤丸岬の表記は北向きのひとつについているので、それは漁港側からの視界に初めて入ってくることになる。
辺土岬への往復と、東海岸周りで奥への往復とその起点として、二回辺土名にはやってきたことになる。一度は港のそばの大盛りが看板になっている食堂(それらしきものは、郵便屋さんに尋ねて教えてもらったここしかなかった)で、ヤキソバを頼んだがやはり食べきれなかった。店のなかは狭いが、外に今風に言えばオープンテラスがある。これも沖縄ではよくある形で、店の中に座るのはわれわれのようなよそ者だけらしい。
腹ごなしにもっと赤丸岬のほうに歩いて行けば、もう少し近寄れないこともないが、この岬の周辺もやはり米軍施設になっているので、一般の立ち入りは制限されている。しかし、その規制はほかの基地ほど厳しくはないらしいのは、その施設がずっと米軍の保養施設とVOA(米軍極東放送)の施設であったことからだろうか。VOAのほうはとうに役目を終えているのだろうが、保養施設は現在も機能しているらしい。
村営バスが出発を待っているところへ、アメリカ人少女らしい数人のグループが軽装でやってきて、運転手さんになにやら尋ねていた。こんなところでいったい…と思ったが、それも赤丸岬の保養施設と関係づけて考えてみれば納得ができる。
それらの施設の一部は返還されて、岬の南側、オクマビーチと呼ばれる付近の南には、JALプライベートリゾートオクマを中心とするリゾートができているらしい。それも、返還当初は地元資本でのリゾート運営をはかろうとしたらしいが、結局は外部資本に頼らざるを得なくなり、JALが運営するホテルがある。
しかし、JALの経営状況の変化のなかで、その後どういういきさつがあり、現在どうなっているのかは“つまびらかにしない”。(いつも常識を越えるヘンな日本語の解釈や用法を、強引に使って常識アタマを刺激してくれ流行らせてくれるので、お調子者はついまねして使ってみたくなる。)
▼国土地理院 「地理院地図」
26度44分41.44秒 128度9分12.68秒
沖縄地方(2015/04/04 訪問)
タグ:沖縄県
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