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番外:与論島・伊平屋島・伊是名島=与論町・伊平屋村・伊是名村(鹿児島県・沖縄県)沖縄県と鹿児島県の県境はどこですか? [番外DB]

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 どうも、写真はメモ代わりという程度にしか考えていないせいもあって、もともといい写真を撮ろうとか、撮りたいとかいう気持ちもないのだが、与論島の写真を遠望でもいいから入れようとしたら…。あらら、なんともかんとも使える写真が1枚もない。
 望遠レンズであれば、ちゃんと捉えられたのだろうが、肉眼で見えている島が写真にうまく写っていないのは、自動で広角になっているからだろうか。
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 もうちょっと写真にも、技術を磨いて(というほどではなくても、マニュアルくらいきちんと読んで…)ちゃんとしなければならないのかもしれないが、それもいまさらめんどくさいし…。ま、でんでんむしの写真へのこだわりはそんな程度で、まったくどうしょうもないレベルです。
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 与論島の西40キロに位置する伊平屋島と伊是名島のほうは、なんとかその横にいくつもの小山を並べたような姿が写ってはいたのだが。
 与論島には島の東南端にチヂ崎という岬がひとつだけある。
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 伊平屋島には、島の北端の田名岬と南端の米岬のふたつがあり、伊是名島にも、打鼻、ゴハ崎、城崎とみっつある。
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 これらの岬まで行けるかどうか、はなはだ心許ないので、とりあえず見えるところまできたという記念に、番外項目をつくっておく。
 前項で述べたように、与論島は鹿児島県で、かつて復帰前には北緯27度線が“国境”であった。では、現在の県境は、どうなっているのだろうか。
 ネット地図では、それを明確にしている情報はない。そもそも陸上の県境と違って、海上の県境に厳密な線引きをする必要性があまりないからかも知れない。
 検索でいちばんに出てくる情報が “Yahoo! 知恵袋”で、「鹿児島と沖縄の県境せんはどこですか」という質問に対して、「鹿児島県奄美諸島の世論島南端と、沖縄島北端の辺戸岬の中間です。」(ママ)というのが“ベストアンサーに選ばれた回答”というのだから、これもまったくどうしょうもないレベルである。
 復帰前の27度線の境界線が、現在の県境になっているのであれば、それは辺戸岬と与論島の「中間」線ではないはずである。それにもうひとつの問題は、やっぱり、みんな誰もが硫黄鳥島のことを無視しているということだ。
 実は、沖縄県の北端は辺戸岬でもなければ、伊平屋島でもない。伊平屋島北端の田名岬から、北北東に約100キロ近く北上した海上に浮かぶ小さな島があり、そこが沖縄県の北端、島尻郡久米島町字硫黄鳥島なのだ。そこが島尻郡伊平屋村ではなく久米島町というのも問題だが、それはとりあえずおくとして…。
 鹿児島県沖永良部島(爆発した島とは違います)からは北西に60キロ、同じくその北の徳之島西岸からは西へ64キロも離れている硫黄鳥島を領域に取り込むために、沖縄県と鹿児島県の県境は、与論島西沖の海上からまっすぐ北へ100キロ以上も伸びていかなければならないのだ。
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 それを示すネット地図情報は見当たらないので、手元にある小学館と平凡社の日本大地図帳を参照してみた。すると、小学館日本列島大地図館(1990年)のほうは県境明記がなかったが、平凡社の日本大地図帳(2006年八訂特別版)ではこのようになっていた。
 どういうわけか、左右の見開きで、左と右の県境表示が、まったく異なっている。
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 左ページ上のほうは、北緯27度線を明確に意識した表記になっている。kwnkyo-3.jpg
 だが、右ページのほうは、“与論島と辺戸岬の中間”という広く流布している俗説をそのまま写し取っているような線引きだ。しかも、その異なる県境表示が、見開きの左右に置かれているというのは、なんともかんとも、ナヤマシイねえこれは(笑)。
 海の上の県境だから、そんなにもめることもないのだろうが、北緯27度線を県境とすると、与論島側にとってはいささか不都合なこともある。そこで、復帰後の県境を実質的に中間に置き直したが、それはあくまで便宜上のことで、正しくはあくまでも27度線ですよ…と、この矛盾する表記を両論併記で並べた見開きページは、そんなふうに言っているようにもみえる。
 さて、そこで…。
 薩南諸島へも、いずれなんとかして行きたいものだが、ここでは沖縄の側からみた歴史的な重要事項として、留意しておかなければならないことがある。
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 本土の人間は、今ではほとんど誰も気にもとめてないが、琉球はかつては立派な独立国であり、大陸と交易し琉球王朝のもとに栄えていた。第二尚氏王統の時代1571(元亀2)年には、奄美群島の北部までもその勢力圏においていた。
 ところが、1609(慶長14)年に薩摩藩の侵攻を受け、尚寧王はその武力に屈し、首里城を開城して薩摩藩の実質支配下(名目上は王朝は存続)におかれることになる。このときから、奄美諸島は薩摩藩に取りあげられてしまう。その諸島のなかで、硫黄鳥島は現在は無人島になっているが、当時は硫黄を産出する重要な島だった。その硫黄鳥島だけは、特別に琉球に残した。それは、硫黄が中継貿易で重要な産品であり、それを薩摩が取りあげても自身が直接中国や東南アジアと貿易をすることはできなかったからだろう。そう考えれば、この島と奄美の諸島の線引きを、わざわざ不自然な形に残したことの説明はつく。
 あくまで、琉球王朝を形ばかりだが対外的には残し、それを窓口にした貿易の利益を搾取するというのが、薩摩が行なった琉球処分だった。搾取に苦しむ王府は、財政破綻をつくろう手段として、今度は八重山などに対しては人頭税など過酷な租税を搾取することでカバーしようと逆にされる側からする側に回ってしまう。
 沖縄県と鹿児島県の県境は、少なくともそこまでは理解したうえでないと、論じられないということである。

▼国土地理院 「地理院地図」
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dendenmushi.gif沖縄地方(2015/04/04 訪問)

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