1984☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]
われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…?
1984
昭和59年 甲子(きのえね)

◯米レーガン大統領が一般教書演説で「強いアメリカ」を強調。
◯ソ連のアンドロポフ書記長が死去。後任にチェルネンコ。
◯アフリカで飢餓が深刻化。各国から救援活動。
◯米レーガン大統領訪中で、4つの近代化政策支持。中国も米の軍事力増強を認める。
◯ソ連がロサンゼルス五輪への不参加を表明。東欧各国も同調。(モスクワ五輪ボイコットへのお返し)
◯インドのガンディー首相が暗殺される。
◉中曽根首相が訪中。胡耀邦共産党総書記、鄧小平党顧問委主任らと会談。日本の対中国経済協力拡大を討議。
◉国鉄の赤字ローカル線に代わる第三セクター「三陸鉄道」が開業。
◉自民党安全保障調査会が、防衛費のGNP比1%枠の見直し作業に。
◉自民党安全保障調査会、スパイ防止法案第3次案を作成。
◉国鉄再建監理委員会第2次緊急提言で、初めて分割・民営化の方向を明示。
◉全斗煥韓国大統領が来日。宮中晩餐会で天皇が「両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾」と表明。
◉日韓首脳会談で「日韓両国関係に新しい章を開く」と共同声明。
◉60年度政府予算案で防衛費は前年比6.9%の増加。
・この年に亡くなった人にはこんな人も…。児玉誉士夫。一万田尚登。三原脩。植村直己。渋沢秀雄。門前眞佐人。山口華楊。伊馬春部。金山次郎。長谷川一夫。霧島昇。林達夫。永野重雄。吉岡隆徳。大島清。森戸辰男。竹山道雄。野田宇太郎。今日出海。大河内一男。有吉佐和子。保富康午。御手洗毅。大川橋蔵。中西悟堂。美濃部亮吉。糸居五郎。カウント・ベイシー。ミシェル・フーコー。フランソワ・トリュフォー。インディラ・ガンジー。サム・ペキンパー。
◎植村直己が世界で初めてのマッキンリー冬季登山に成功。下山途中で消息を絶つ。
◎神奈川県逗子市の池子弾薬庫跡地に米軍家族住宅建設に反対する市民グループの富野暉一郎が市長選挙に当選。
◎週刊文春の記事「疑惑の銃弾」で、ロス疑惑騒動。
◎高松地裁、財田川事件の死刑囚再審裁判で、谷口被告に無罪判決。
◎江崎グリコ社長が短銃を持った2人組に誘拐。グリコ製品に毒物との脅迫状が報道機関に郵送される。スーパーなどグリコ製品の販売一時中止。
◎熊本名産のからしれんこん中毒で11人死亡。
◎中江滋樹主宰の投資コンサルタント業「投資ジャーナル」を警視庁が摘発。
◎グリコ事件犯人「かい人21面相」が森永製菓も脅迫。大阪のスーパーで青酸入りの森永製品を発見。
◎総理府が、調査では国民の9割が中流意識をもっていると発表。
◎長野県中部地震で木曽の王滝町で大規模な山崩れ。29人が死亡。
◎元留学生トルコ人から“トルコ風呂”の呼称を改めるよう厚生大臣に直訴。(その前に新聞に投書が載っていた。)
◎ひとり暮らしの老人が100万人を突破。
◎太平洋各地に大雪。東京では15年ぶりに22センチの積雪。交通機関乱れる。
◎東京中央区の東京国立近代美術館フイルムセンターが火災。貴重なフイルム多数焼失。
◎東京日劇跡にマリオン(有楽町センタービル)がオープン。
◎島根県荒神谷遺跡から358本の銅剣を発見。翌年には銅鐸・銅矛も。
◎人気力士高見山が引退。
◎「FRIDAY」が創刊。「FOCUS」は200万部突破。(F.F戦争)
◎週刊「少年ジャンプ」400万部突破。
■流 行:エリマキトカゲ・システム手帳。
■テレビ:くれない族の反乱・
■邦 画:伊丹十三/お葬式・篠田正浩/瀬戸内少年野球団・沢井信一郎/Wの悲劇・小松左京/さよならジュピター・
■洋 画:ジェームス=キャメロン/ターミネーター・マーティン=ブレスト/ビバリーヒルズ=コップ・愛と追憶の日々・ライト=スタッフ。
■ 歌 :わらべ/もしも明日が…。・五木ひろし/長良川艶歌・芦屋雁之助/娘よ・チェッカーズ/涙のリクエスト・中森明菜/飾りじゃないのよ涙は・吉川晃司/モニカ・薬師丸ひろ子/メイン=テーマ・杏里/悲しみがとまらない・小林麻美/雨音はショパンの調べ・テレサ・テン/つぐない・木村友衛/細川たかしなど競作/浪花節だよ人生は・高橋真梨子/桃色吐息・安全地帯/ワインレッドの心・プリンス/パープル=レイン・マドンナ/ライク=ア=ヴァージン・ヴァン=ヘイレン/JUMP。
■ 本 :浅田彰/構造と力・ホイチョイ=プロダクション/見栄講座・小学館/日本大百科全書・平凡社/大百科事典。
■ことば:マル金マルビ・普通のおばさんに。


◯米レーガン大統領が一般教書演説で「強いアメリカ」を強調。
◯ソ連のアンドロポフ書記長が死去。後任にチェルネンコ。
◯アフリカで飢餓が深刻化。各国から救援活動。
◯米レーガン大統領訪中で、4つの近代化政策支持。中国も米の軍事力増強を認める。
◯ソ連がロサンゼルス五輪への不参加を表明。東欧各国も同調。(モスクワ五輪ボイコットへのお返し)
◯インドのガンディー首相が暗殺される。
◉中曽根首相が訪中。胡耀邦共産党総書記、鄧小平党顧問委主任らと会談。日本の対中国経済協力拡大を討議。
◉国鉄の赤字ローカル線に代わる第三セクター「三陸鉄道」が開業。
◉自民党安全保障調査会が、防衛費のGNP比1%枠の見直し作業に。
◉自民党安全保障調査会、スパイ防止法案第3次案を作成。
◉国鉄再建監理委員会第2次緊急提言で、初めて分割・民営化の方向を明示。
◉全斗煥韓国大統領が来日。宮中晩餐会で天皇が「両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾」と表明。
◉日韓首脳会談で「日韓両国関係に新しい章を開く」と共同声明。
◉60年度政府予算案で防衛費は前年比6.9%の増加。
・この年に亡くなった人にはこんな人も…。児玉誉士夫。一万田尚登。三原脩。植村直己。渋沢秀雄。門前眞佐人。山口華楊。伊馬春部。金山次郎。長谷川一夫。霧島昇。林達夫。永野重雄。吉岡隆徳。大島清。森戸辰男。竹山道雄。野田宇太郎。今日出海。大河内一男。有吉佐和子。保富康午。御手洗毅。大川橋蔵。中西悟堂。美濃部亮吉。糸居五郎。カウント・ベイシー。ミシェル・フーコー。フランソワ・トリュフォー。インディラ・ガンジー。サム・ペキンパー。
◎植村直己が世界で初めてのマッキンリー冬季登山に成功。下山途中で消息を絶つ。
◎神奈川県逗子市の池子弾薬庫跡地に米軍家族住宅建設に反対する市民グループの富野暉一郎が市長選挙に当選。
◎週刊文春の記事「疑惑の銃弾」で、ロス疑惑騒動。
◎高松地裁、財田川事件の死刑囚再審裁判で、谷口被告に無罪判決。
◎江崎グリコ社長が短銃を持った2人組に誘拐。グリコ製品に毒物との脅迫状が報道機関に郵送される。スーパーなどグリコ製品の販売一時中止。
◎熊本名産のからしれんこん中毒で11人死亡。
◎中江滋樹主宰の投資コンサルタント業「投資ジャーナル」を警視庁が摘発。
◎グリコ事件犯人「かい人21面相」が森永製菓も脅迫。大阪のスーパーで青酸入りの森永製品を発見。
◎総理府が、調査では国民の9割が中流意識をもっていると発表。
◎長野県中部地震で木曽の王滝町で大規模な山崩れ。29人が死亡。
◎元留学生トルコ人から“トルコ風呂”の呼称を改めるよう厚生大臣に直訴。(その前に新聞に投書が載っていた。)
◎ひとり暮らしの老人が100万人を突破。
◎太平洋各地に大雪。東京では15年ぶりに22センチの積雪。交通機関乱れる。
◎東京中央区の東京国立近代美術館フイルムセンターが火災。貴重なフイルム多数焼失。
◎東京日劇跡にマリオン(有楽町センタービル)がオープン。
◎島根県荒神谷遺跡から358本の銅剣を発見。翌年には銅鐸・銅矛も。
◎人気力士高見山が引退。
◎「FRIDAY」が創刊。「FOCUS」は200万部突破。(F.F戦争)
◎週刊「少年ジャンプ」400万部突破。
■流 行:エリマキトカゲ・システム手帳。
■テレビ:くれない族の反乱・
■邦 画:伊丹十三/お葬式・篠田正浩/瀬戸内少年野球団・沢井信一郎/Wの悲劇・小松左京/さよならジュピター・
■洋 画:ジェームス=キャメロン/ターミネーター・マーティン=ブレスト/ビバリーヒルズ=コップ・愛と追憶の日々・ライト=スタッフ。
■ 歌 :わらべ/もしも明日が…。・五木ひろし/長良川艶歌・芦屋雁之助/娘よ・チェッカーズ/涙のリクエスト・中森明菜/飾りじゃないのよ涙は・吉川晃司/モニカ・薬師丸ひろ子/メイン=テーマ・杏里/悲しみがとまらない・小林麻美/雨音はショパンの調べ・テレサ・テン/つぐない・木村友衛/細川たかしなど競作/浪花節だよ人生は・高橋真梨子/桃色吐息・安全地帯/ワインレッドの心・プリンス/パープル=レイン・マドンナ/ライク=ア=ヴァージン・ヴァン=ヘイレン/JUMP。
■ 本 :浅田彰/構造と力・ホイチョイ=プロダクション/見栄講座・小学館/日本大百科全書・平凡社/大百科事典。
■ことば:マル金マルビ・普通のおばさんに。
❖年表の元ネタ主な参考資料:河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。
(2015/03/18 でんでんむし蛇足の記1984)
Apple IIやTRS-80にはさわったことがなかったが、PETを買った頃に創刊された「ASCII」などの記事で、Apple Lisa のことは知っていた。それとほぼ同等に近い機能の新しいコンピュータが安くなってAppleから出るというニュースは、よし出たら絶対買うぞと心待ちにさせた。
ジョージ・オーウェルの「1984年」をもじって「1984年は“1984年”にはならない」という、全米で放映されたTV-CMの話題が日本にも伝わってくる。CMにジョージ・オーウェルとは!と、いやがうえにも期待は高まる。
北米で産する小ぶりのリンゴ品種の名をとってMacintosh と名付けられた、これまでのマイコンとはまったく別の雰囲気をもった新製品は、1月のアメリカでの発売に続いて、4月に日本でも帝国ホテルで行なわれた発表会と同時に発売になったので、その場ですぐに購入を申し込んだ。当時は、販売代理店が数社あってそれらが皆発表会会場に詰めていたが、たまたまCanon販売から買う形になった。
それまで何年かBASICマシンをいじってきていたが、初めてのMacintoshが届いたときには、まずその外箱のデザインに感嘆し、開けた箱の中から出てくる付属部品や正方形のマニュアルのセンスの良さに驚いた。
そして、実際に起動させると、9インチモノクロのスタートアップ画面の中央にニコニコマック(と後にはそう呼ばれるようになる)の起動画面が出てくる。アイコン(これもそれまでほとんどの日本人が使ったことのない言葉だったが、イコン(聖像)からきているとわかってなるほどと思った。)というものが並ぶデスクトップ画面が開いて、標準バンドルされていたMacPaintやMacWriteをマウスで操作したときの感動は、今思い返してみても新鮮だ。

Apple IIやTRS-80にはさわったことがなかったが、PETを買った頃に創刊された「ASCII」などの記事で、Apple Lisa のことは知っていた。それとほぼ同等に近い機能の新しいコンピュータが安くなってAppleから出るというニュースは、よし出たら絶対買うぞと心待ちにさせた。
ジョージ・オーウェルの「1984年」をもじって「1984年は“1984年”にはならない」という、全米で放映されたTV-CMの話題が日本にも伝わってくる。CMにジョージ・オーウェルとは!と、いやがうえにも期待は高まる。
北米で産する小ぶりのリンゴ品種の名をとってMacintosh と名付けられた、これまでのマイコンとはまったく別の雰囲気をもった新製品は、1月のアメリカでの発売に続いて、4月に日本でも帝国ホテルで行なわれた発表会と同時に発売になったので、その場ですぐに購入を申し込んだ。当時は、販売代理店が数社あってそれらが皆発表会会場に詰めていたが、たまたまCanon販売から買う形になった。
それまで何年かBASICマシンをいじってきていたが、初めてのMacintoshが届いたときには、まずその外箱のデザインに感嘆し、開けた箱の中から出てくる付属部品や正方形のマニュアルのセンスの良さに驚いた。
そして、実際に起動させると、9インチモノクロのスタートアップ画面の中央にニコニコマック(と後にはそう呼ばれるようになる)の起動画面が出てくる。アイコン(これもそれまでほとんどの日本人が使ったことのない言葉だったが、イコン(聖像)からきているとわかってなるほどと思った。)というものが並ぶデスクトップ画面が開いて、標準バンドルされていたMacPaintやMacWriteをマウスで操作したときの感動は、今思い返してみても新鮮だ。
それまでのコンピュータとは、まったく次元の異なるものが、目の前にあったのだった。それらについて書き始めると、これまたキリがなくなるが、アイコンやマウスやクリックや…といった現在のコンピュータの基本になっているユーザー・インターフェイスを初めて一般化した記念すべきものだった。が、ゼロックスのスターやPARC(パロアルト研究所)とジョブスの話なども、もうだいぶ知られているのでこのくらいにしておいて…。
とにかく、今日まで30年を超えることになったでんでんむしのAppleやMacintoshとの関わりは、この年から始まったわけである。
最初のマイコン、社長に直訴して会社で買ってもらったコモドールのPETと、自腹で買った初代128KのMacintoshは、ほぼ同じくらいの値段だった。
その社長の体調がすぐれず、有馬での企画会議も間隔が開いていた。それがいつだったかは定かではないが、結果的に最後となる東京出張でやってきたときには、投宿していた九段のホテルに呼び出されて食事をともにし、そんな自らの病気についても語ってくれた。
いささか元気がなさそうなのが気になったが、終始穏やかに仕事の話からカープの野球まで会話を交わし、うちの息子の受験にまで気にかけてくれた。おかげさまでWの理工にはなんとか受かることができましたというと、そうかそうかと我がことのように喜んでくれた。…と、書いてはみたものの、このあたりの時期が合格発表の前だったか後だったか、実は記憶がはっきりしない。いずれにしてもそんな話題が出たことは確かだ。
そして、社長と直接に話をしたのは、それが最後となった。
大阪本社の総務部次長からの電話で、突然の訃報を聞いた夜、あれこれ想いをめぐらせていると、自然に涙が溢れてきてとまらなくなった。
とにかく、今日まで30年を超えることになったでんでんむしのAppleやMacintoshとの関わりは、この年から始まったわけである。
最初のマイコン、社長に直訴して会社で買ってもらったコモドールのPETと、自腹で買った初代128KのMacintoshは、ほぼ同じくらいの値段だった。
その社長の体調がすぐれず、有馬での企画会議も間隔が開いていた。それがいつだったかは定かではないが、結果的に最後となる東京出張でやってきたときには、投宿していた九段のホテルに呼び出されて食事をともにし、そんな自らの病気についても語ってくれた。
いささか元気がなさそうなのが気になったが、終始穏やかに仕事の話からカープの野球まで会話を交わし、うちの息子の受験にまで気にかけてくれた。おかげさまでWの理工にはなんとか受かることができましたというと、そうかそうかと我がことのように喜んでくれた。…と、書いてはみたものの、このあたりの時期が合格発表の前だったか後だったか、実は記憶がはっきりしない。いずれにしてもそんな話題が出たことは確かだ。
そして、社長と直接に話をしたのは、それが最後となった。
大阪本社の総務部次長からの電話で、突然の訃報を聞いた夜、あれこれ想いをめぐらせていると、自然に涙が溢れてきてとまらなくなった。
1961年に採用試験で拾ってもらって始まった社長との縁は、四半世紀近くになろうかという前にしてぷっつりと切れ、そしてMacintoshユーザーとしてのその後が始まったのである。1984年は、でんでんむしにとっては非常に大きな意味を持っていた通過点だった。

タグ:年表
Macintoshの大先輩ですね。
まさに草創期のお話、とっても興味深いです。
by desidesi (2015-03-24 18:26)
@まあ、長いだけなら“日本一”ということになりますがね。(^_-)-☆。でもほんとに長いだけで、購入した機種も数え上げれば…。ですか、ずっと感覚的に使ってきたユーザーなので、ちっとも深くならない…。
by dendenmushi (2015-03-25 07:51)