1200 米ヶ崎=陸前高田市米崎町(岩手県)結局バス路線からは遠く外れた岬で地震と津波がどのようにして起こるかを考える [岬めぐり]
陸前高田市米崎町の米ヶ崎(よねがさき)は、地図上ではかなり目立っている広田湾奥の岬である。これなら、どこからでも眺められるだろうと思っていたら、これが大間違い。
小友から北西に向かうBRTは、米ヶ崎からは遠く離れて山寄りを西へ進んでいく。そして、プレハブの陸前高田市役所があるところまで行くと、そこから南に向きを変えて、奇跡の一本松を経由して気仙沼へ向かう。
なんのことはない、バスの路線は米ヶ崎を大きく避けるようにしてきたので、やっとその姿をどうにか捉えられたのは、奇跡の一本松へ辿り着いてからだった。
それも、松のあるところからは、米ヶ崎のあるとおぼしき方向を見てもなんにも見えない。土盛りをしてつくられた展望台に登って、初めて見えた。
ところが、これがまた、陸前高田市の一帯では、大規模な土盛りで市街地の嵩上げをしようという工事が進んでいて、その土砂を運ぶためのものであろう、長く横に伸びているベルトコンベアが、米崎とちょうどかぶって隠してしまう。
カメラの位置を見晴台の地面すれすれに置くようにして撮って、どうにか米崎らしいところをコンベアの下に捉えることができた。
1955(昭和30)年に、高田町・気仙町・広田町・小友村・竹駒村・矢作村・横田村・米崎村の3町5村が合併してできた陸前高田市は、広田湾の奥に三陸ではいちばん広いと思われる平野があり、市街地はその北側の山寄りにあった。南の海岸線には、高田松原が東西に延びていてその西側には気仙川が流れ、東には米崎が飛び出ていた。“米崎”という名からも想像されるように、松原の北側には、肥沃な田圃が広がっていたのだろう。そこも、市街化が進んでいただろうが、震災前にも気仙川寄りを中心に農地はまだまだ広かった。
この開けた平野にも、怒濤の津波が押し寄せたので、市街地も農地も消え、松原の海岸線も流されてほぼ完全になくなってしまった。田圃も、いったん津波を被ると、そこからまた米が収穫できるようにするためには、土を入れ替えたり大変な手間と費用がかかることになる。そこら一帯も、土盛りで埋まっていたので、再び田圃が蘇ることはなさそうだ。
リアス海岸は、湾の入り口から奥に向かって、いくつもの幅が狭い入江が連続している。湾内では水深が浅くなるため、そこに押し寄せる津波の波高が大きく増幅されてしまい、被害も大きくなるということは、今回の東日本大震災でも多くの人が体験し、見聞きし、よく言われてきたので、だいぶ普通人の間でも常識となった。
三陸ジオパーク協議会が制作している「三陸ジオマップ」には、その津波が地震によってどのように発生するのか、そのメカニズムを一般にわかりやすく説明しているので、その部分を紹介しておこう。これもプレート・テクトニクス理論によって解明され、現在の常識となっている地震の原因、ということなるのだろうか。
火山国・地震国で海岸線の長い日本では、こういうことは全国民の常識でなくてはならい。また、震災の記録や記憶も、長く後世に語り継がれていかなければならい。
特に甚大な被害を被った南部のリアスエリアでは、大槌小鎚(大槌町)、根浜・鵜住居(釜石市)、大船渡湾(大船渡市)、高田松原(陸前高田市)、気仙沼湾(気仙沼市)などに設けられたジオサイトで、地元ガイドが津波の脅威を語り伝えていくという活動を、三陸ジオパーク協議会でも進めているらしい。
震災後の陸前高田市に入るのは、今回が二度目である。
一度目は、南三陸町から気仙沼を訪ねて、その行程の最後にBRTに乗って陸前高田市役所の前まで行き、またそこから引き返してきた。冷たい雨のそぼ降る最悪のコンディションの日であった。バスの車窓から陸前高田の西の端を眺めただけで終わったその日のことは、「番外:奇跡の一本松」 の項で簡単に触れていた。
改めてその奇跡の一本松を、今度は車窓からではなくてそのそばまで行ってみたいと思ってきた。
▼国土地理院 「地理院地図」
39.00086, 141.65886
東北地方(2014/11/07 訪問)
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