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1182 弁天崎=大船渡市三陸町吉浜(岩手県)都から遠く離れたみちのおく“陸奥国”が分割されて「三陸」ができ… [岬めぐり]

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 「みちのく」とは「道の奥」であり、「都からみて遠い奥」を総称すると考えられる。日本列島に中央集権的な国家意識と行政的な支配が定着し始めた頃には、道の奥は現在の地図で言えば宮城県の中南部、山形県の内陸部、福島県のほぼ全域くらいをその範囲としていた。
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 中央政権が蝦夷征伐と称して、坂上田村麻呂の昔から柵を設け支配地域を北へと押し上げていき、東北地区に圧迫を加えてきた。以来、複雑な支配者の交代と境界線の変遷が長い歴史の間で繰り返されてきた。その結果、最大では東北地方の太平洋側から青森県が全部、陸奥(みちのく)陸奥国(むつのくに)という広い範囲になる。
 幕末維新の戊辰戦争の後半で、奥羽越列藩同盟が新政府軍に破れた後の戦後処理で、陸奥国は5分割されるが、この分割でできたのが陸奥国(りくおう)・陸中国(りくちゅう)・陸前国(りくぜん)で、“陸”の字がつくのをまとめて「三陸」と称するようになる。だが、三陸それ自体は行政区画ではなく、“三陸海岸”とか“三陸地方”とか、あるいは“明治三陸地震津波”とか“三陸沖”とかいうくくりで一般的に知られているし、近年では“三陸かき”のように産品のブランドでなじみがある。
 余談の余談になるが、ついでにここで確認しておかなければならないのは、この新政府軍の行なった多分に懲罰的なさまざまな措置としての陸奥国分割の結果、そもそも宮城県あたりから始まったはずの「みちのく」の範囲は、その中心部分が三陸に分割されることによって、残された陸奥(みちのく)は青森県にほぼ限定される使い方に変わることになった、ということであろう。
 現在でも「三陸」を行政範囲の名称に使っているところがふたつある。そのひとつが、この岩手県大船渡市三陸町であり、いまひとつは宮城県本吉郡南三陸町である。
 今は大船渡市の一部になっている三陸町吉浜地区は、かつては吉浜村であった。その頃には、吉浜・越喜来(おきらい)・綾里(りょうり)の3つの湾ごとにそれぞれが独立した村であったようだ。吉浜村・越喜来村・綾里村が、1956(昭和31)年に合併して気仙郡三陸村になる。
 その三陸村が1967年に町制を施行し、2001年になって隣接する大船渡市に編入されることになった。
 この地域が、湾ごとに独自の行政圏を形成していたということは、昔の交通の困難さを思えば至極当然のことであったが、これは記憶しておくべきであろう。
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 鍬台トンネルの真ん中から大船渡市の三陸町に入り、トンネルを出たところは吉浜湾が広がる三陸町吉浜である。
 吉浜湾は北岸の大磯島から南岸の長茂崎を結ぶ線までがU字形をなしていて、そこから沖へは南北の半島が反っているので大きく開いている。とくに北側の鍬台山の半島は、先端の死骨崎が見えないほど反り返っていて、弓なりに続く北岸では次の岬は弁天崎となる。
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 弁天崎のあるところは、518.8メートルの鍬台山が南に降りてくるところで、43メートルの小山には神社マークがある。これが弁天社なのだろうか。
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 岬の西側には根白(こんぱく)の集落と漁港がある。南リアス線の車窓から眺めていると、家々と木立の間に見え隠れしていくが、線路は海岸からは40メートル近いところを通っている。
 家々も高いところにあるためか、とくに津波で被害が及んだようには見えない。
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 写真では少しわかりにくいが、ところどころに赤いものが見える。これは漁業・養殖用のブイである。これが海岸に転がっているのはどこでも当たり前だが、ここはかなり高いところにある。

▼国土地理院 「地理院地図」
39.154053, 141.863826
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dendenmushi.gif東北地方(2014/11/05 訪問)

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タグ:岩手県
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