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1955☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは… [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…? 
 
1955mark.jpg昭和30年 乙未(きのとひつじ)
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◯ソ連が対独戦争状態の終結を宣言。マレンコフが辞任しブルガーニン元帥が首相に就任。
◯米国務省が、ヤルタ会談の秘密資料を公開。
◯英は水爆製造計画を、仏は原爆製造計画をそれぞれ公表。
◯米はネバダ州での原爆実験を開始。物理学者3名が実験反対を表明。
◯英、チャーチル首相が辞任し、イーデン内閣が誕生。
◯ソ、英仏との友好条約の破棄を表明。
◯西独がNATOに加盟。東独承認の国とは外交関係をもたないと表明。
◯西ヨーロッパ連合発足。
◯ラッセル・アインシュタイン宣言。原水爆戦争の危険を各国に警告。
◯米英仏が、東独の不承認をソ連に通告。
◯米モンゴメリー市で、人種差別バス撤廃ボイコット運動をキング牧師が指導。
◯ソ連が日本の国連加盟案に拒否権を発動。

◯仏が南ベトナム政府に全権委譲。仏軍がサイゴンから撤退。
◯中国軍が北朝鮮から撤退開始。
◯南ベトナムでクーデター、パオダイ首席の退位。
◯北ベトナム、ホー首席が北京・モスクワを訪問し援助を依頼協定。
◯中台海峡の金門島廈門地域で砲撃戦が始まる。
◯南ベトナムの国家主席選挙でゴ・ディン・ジェムがパオダイに大勝。
◯ゴ・ディン・ジェム大統領のベトナム共和国が成立。

◉日本共産党が左翼冒険主義を自己批判。
◉第二次鳩山内閣、民主党単独少数で成立。
◉第1回原水爆禁止世界大会広島大会開催。
◉石炭鉱業合理化臨時措置法を公布。
◉民主党が「うれうべき教科書問題」第1集を刊行。
◉米軍がオネストジョン(原子砲)の到着を発表。
◉国勢調査で、総人口は8927万5529人。平均世帯人数は4.97人で35年間ほとんど変わらず。
◉愛知用水公団の発足。
◉左右の社会党統一大会、鈴木茂三郎委員長、浅沼稲次郎書記長。
◉保守合同で自由民主党結成、代行委員鳩山、緒方、三木、大野。
◉第3次鳩山内閣。
◉原子力基本法、原子力委員会設置法を公布。
◉この年の下期から神武景気始まる。

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。岡田茂吉。坂口安吾。下村湖人。宮武外骨。佐々木禎子。安井曾太郎。ポール・クローデル。チャーリー・パーカー。アルベルト・アインシュタイン。トーマス・マン。ジェームズ・ディーン。サイ・ヤング。モーリス・ユトリロ。

◎トヨタ自動車工業が「トヨペットクラウン」を発売。
◎国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が沈没、168人死亡。
◎在日朝鮮人総連合会結成。
◎東京通信工業が、トランジスタラジオを発売。
◎丹頂(マンダム)が、女性化粧品を廃して男性整髪料専門に。
◎カルチャーセンター第1号の産経学園が、150の講座を開講。
◎東大生産技術研究所が国産ロケット1号機の発射実験に成功。
◎NHKテレビが初めて衆議院選挙の開票速報。
◎日本住宅公団が発足。初めて「DK」表示が使われるようになる。
◎三重県四日市、山口県徳山・岩国の旧海軍燃料廠を払い下げ。石油化学コンビナートの形成が始まる。
◎原爆症患者の死亡が相次ぐ。広島原爆資料館開館。

◎岡山県下で乳児の発熱、下痢、肝臓肥大が多数。原因は森永の粉ミルクにヒ素が混入していたため。森永ヒ素ミルク中毒事件。
◎厚生省が合成洗剤は有効で無害と全国に通達。
◎東京都が蚊と蝿をなくす運動を開始。
◎東京・新宿駅ホームに、学生アルバイトの“押し屋”登場。
◎プラモデルがブームになり、商品は100種を越える。
◎セルロイドのキューピーは製造禁止に。
◎新書ブーム。発行点数2733点で、全単行本の12.7%。
◎平凡社「世界大百科事典」32巻、岩波書店「広辞苑」(新村出)、大修館「大漢和辞典」13巻(諸橋轍次)がそれぞれ刊行。
 
■流 行:マンボスタイル・慎太郎刈り・ポニーテール・ボディビル。
■テレビ:私の秘密・日真名氏飛び出す・サザエさん。
■邦 画:成瀬巳喜男/浮雲・内田吐夢/血槍富士・豊田四郎/夫婦善哉・木下恵介/野菊の如き君なりき。
■洋 画:ルイス=フォーブス/これがシネラマだ・ジョージ=シートン/喝采・エリア=カザン/エデンの東・リチャード=ブルックス/暴力教室・ルネ=クレマン/鉄路の闘い。
■ 歌 :島倉千代子/りんどう峠・この世の花・三橋美智也/女船頭歌・春日八郎/別れの一本杉・菅原都々子/月がとっても青いから・宮城まり子/ガード下の靴みがき。
■ 本 :正木ひろし/裁判官・大岡信/現代詩試論・長谷川伸/日本捕虜志。
■ことば:ノイローゼ・モノセックス・太陽族・書きますわよ。
 
❖年表の元ネタ主な参考資料三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

dendenmushi.gif(2014/11/26 でんでんむし蛇足の記)
 振り返ってみると、環境の格差、地域による格差は、極めて大きい。そんな当たり前のことを考えると、昔は今よりももっとその差が大きかった。それを少しでも縮めた最大の要因は、“情報”が全国ほぼあまり差なしに行き渡るようになったからだとも言えるのだろう。
 全国のできごとも、新聞やラジオを通じて得られる。この前年に起きた青函連絡船「洞爺丸」の沈没事故などは、新聞の一面に黒地に白抜きの大見出しが踊り、船底をさらした写真が大きく載って、衝撃的だったのはよく覚えている。しかし、そういう大事件や事故のニュースが伝えられても、どこか遠い国のできごとのような感じしかしなかった。(現に、長い間「洞爺丸」の沈没海域は、ぼんやりと青森側だと思い込んでいた。)
 一度も行ったことがない東京や中央で起きていることをイメージすることはできず、ほとんど意識にもなかった。なにしろ、この頃のいちばん遠くへ行った経験が小学校の修学旅行で行った別府で、東は同じ県内の尾道までだった。広島の郊外は、まだまだ田舎だけの狭い世界で、のんびりのほほんとした時間がゆっくり流れていた。
 1955年の大学進学率は、10.1%だったと、文部科学省の調査はいう。2013年でも50.8%だというから、これは全国平均であろう。実際は地域格差が想像以上に大きく、中央や都市部ではこれより高く、地方ではこれよりもっと低かっただろう。
 広島は師範学校もあったし、教育熱心ともいわれていた地域だったらしいが、郊外の田舎ではあたりを見回しても大学へ行ったという家はどこにもない。それでも義務教育を終えると、なんとなく高校には行くのが自然というくらいの雰囲気はあったので、なんとなく市内の公立高校の入試を受けて入った。が、それもかなりの低空飛行であったはずだ。
 この受験する高校を選ぶときにも、工業科か商業科が普通科かという選択肢はあったのだが、どう考えてみても自分の将来とは結びつかない。消去法で普通に普通科に入るしかなかった。
 けれども、高校ではもう大学進学競争は始まっていた。2年生になるときに、進学コースと就職コースでクラス分けがされる。とても大学まで行く資力も学力もないことははっきり認識していたので、迷わず就職コースを選んだが、その広島城の北にある高校ではその当時70%が進学コースだった。
 高校までの通学は、始めと終りではバスに乗っていた。この場合は、堀越のバス停から国道2号線を通り、広島駅を経由して終点の紙屋町まで行き、そこから原爆で赤く焼けた石垣が残る広島城跡の間を抜けて学校まで1.5キロほど歩く。広島はバス網の発達しているところで、待つほどもなく次々とやってくるくらいだったが、途中で自転車通学にした。国道2号線もその当時の交通量では、自転車で停留所に停まっているバスを追い越していくことも悠々できた。男子も女子も自転車通学は盛んで、中学では一緒だった工業学校や商業学校へ行く連中と、抜きつ抜かれつルールのない競争をしていた。
 どういうわけだか、なにがきっかけというのもよくわからないのだが、中学から文芸部と新聞部で編集のまねごとをはじめていた。高校でも新聞部ではあったが、予算がないため年に一二度くらいしか出せないので、それだけではつまらない。家にあったガリ版で見様見真似の勝手な新聞をつくって近所に配って歩いていた。相当変なこどもである。
 なぜガリ版などが家にあったかといえば、隣に住んでいた下の叔母が、筆耕の内職をしていたからだ。使わなくなった謄写版セットをもらって、自分で鉄筆を握って、ガリガリと原紙を切って、リンクをつけたローラーでひとなでするとプリントができる…。これは、すごく魅力的なことだった。
 もうひとつ魅力的なことは、竹ひごをロウソクの炎であぶって曲げ模型飛行機をつくって飛ばすこと。いろいろな飛行機をつくっては壊していた。小さな狭い世界で、空を飛ぶ夢は、よくみていたものだ。
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タグ:年表
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desidesi

私も、子供の頃、ろうそくで竹ひごを炙って曲げたり、
薄い紙を糊で貼ったり、霧吹きで湿らせたり乾かしたりして
模型飛行機を作っていました。
そういう一つひとつの作業が楽しかったなあ。
どうやったら、きれいな曲線が出せるのか
…そんなことばかり考えていた時期を思い出しました。
今は便利な時代だけど、そういう過程を楽しむ機会が
少ないような気はします。(自戒も含め)
by desidesi (2014-11-27 11:06) 

dendenmushi

@やりましたよねえ、desidesiさん。そうそう、水につけながらね。きれいな曲線を出すには、あせらずゆっくりすこしずつ、がコツなんですが、こどもにはそれがむずかしい。
しかし、なかなかうまく飛ばすのもむずかしかったですね。だんだんとプロペラゴム動力機より、グライダーのほうが多くなっていました。
過程を楽しむというのも、一種の贅沢ですね。いまではなんでもできあいがありますから…。
by dendenmushi (2014-11-27 16:22) 

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