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1952☆『思い出の索引』★でんでんむし@アーカイブス☆わたしたちが生きてきた時代とは…  [年表]

われわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのだろうか…?

1952mark.jpg昭和27年 壬辰(みずのえたつ)
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◯英、ジョージ6世の死。エリザベス2世の即位。
◯英、チャーチル首相が原爆の保有を公表。初の原爆実験に成功。
◯キューバ、軍事クーデターでバチスタ独裁政権誕生。
◯米、日本との平和条約を批准。
◯米英仏が、西独とボン協定に調印。占領の終了と西独の大幅な主権回復。
◯東独、ベルリンの東西国境線を封鎖。
◯米、エニウェトク環礁で水爆の実験。
◯米、共和党のアイゼンハワーが大統領に就任。
◯NATO理事会が、インドシナ戦争での仏支持を再確認。
◯英、ジェット旅客機コメットが成層圏飛行実験に成功。
◯ヘルシンキで、第15回オリンピック開催。

◯英、エジプトのスエズ運河を封鎖。
◯韓、李承晩大統領が米などの反対を無視し海洋主権宣言を発し、漁船立入禁止線「李ライン」を設定。日本漁船のだ捕続く。
◯朝鮮休戦会談が再開されるも、国連側が無期限休会を通告。
◯中、上海などの英人財産を接収。

◉吉田首相が前年のダレス宛書簡で、国府との講和を約した旨公表。
◉国民民主党、農民協同党、新政クラブが合同して、改進党を結成。幹事長:三木武夫。
◉吉田首相が「自衛のための戦力は合憲」と答弁。後に修正。
◉高良とみらが戦後初めてのモスクワ入り。
◉破壊活動防止法反対スト始まる。破防法、国会に提出。
◉最後の追放解除29名を発表。(岸信介らは含まれず)
◉対日平和条約・日米安全保障条約の発効。主権回復。
◉使用不許可の皇居前広場に入ったデモ隊と警官隊が衝突。血のメーデー事件で2人死亡。
◉「アカハタ」の復刊。
◉早大の警官パトロール反対集会に、警官隊が突入。
◉デモ隊が人民電車を走らせ警官隊と衝突する、吹田事件。
◉破防法公布により、公安調査庁を設置。
◉警察予備隊と海上警備隊を統合して保安庁を設置。
◉最高裁が左派社会党の警察予備隊違憲訴訟に却下の判決。
◉警察予備隊を保安隊に改組。
◉第四次吉田内閣成立。
◉皇太子、立太子礼。
◉池田通産相が、中小企業の倒産や自殺もやむを得ないと失言し辞任。
◉米軍の射爆場として石川県内灘の使用承認を閣議決定。
◉行方不明だった鹿地亘が帰宅し、米軍諜報機関に監禁されていたと声明。
◉炭労のストに対し、政府が緊急調整権発動を決定。
◉個人国民所得が、戦前水準の99%に回復。

◉琉球中央政府発足。
◉平和条約発効により、10月25日ですべてのポツダム命令が廃止される。
◉引揚援護庁が、第二次大戦中の南方地域の日本軍将兵戦死者数を123万9709人と発表。(沖縄8万6627人、フィリピン47万人、ビルマ16万人余)

・この年に亡くなった人にはこんな人も…。久米正雄。松田重次郎。豊田喜一郎。笑福亭圓歌。三鬼隆。大辻司郎。三田村鳶魚。和田信賢。平沼騏一郎。岡田啓介。土井晩翠。中山晋平。ジョージ6世。ジョン・デューイ。スヴェン・ヘディン。

◎東大のポポロ劇団発表会に私服警官の潜入が発覚。
◎日航機もく星号が大島三原山に墜落。乗客乗員37人全員死亡。
◎白井義男がボクシングフライ級世界チャンピオンに。
◎東京駅前に、新丸ビルが竣工。
◎十勝沖地震発生。津波などにより死者行方不明者33名、家屋流出8,973戸。
◎国会中継のラジオ放送がスタート。民放初の政見放送も。
◎戦争花嫁70人が渡米。
◎初の政府主催戦没者追悼式が天皇・皇后両陛下参列のもと新宿御苑で開催。
◎神戸港でビルマ米などの輸入米に黄変米が大量にみつかり、黄変米問題が発生。
◎鳥取で大火、焼失6,786戸。
◎日本代表が戦前のベルリンオリンピック以来、16年ぶりに夏季オリンピック参加。
◎この年の長者番付のベストテンのうち9人が炭鉱鉱業所有者。(黒いダイヤのブームが続く)
◎出光興産が高オクタン価ガソリンを輸入、アポロ銘柄で全国販売展開。
◎三菱銀行、住友銀行、三井生命保険など、財閥商号の使用が復活。

◎八丈島南方海上に海底火山噴火。明神礁の出現。
◎駐留軍放送が廃止され、FENが放送開始。
◎運転免許取得者が急増し、警視庁は品川鮫洲に運転免許試験場を新設。
◎東京の上野公園=今井橋間でトロリーバスが運行。
◎羽田飛行場が米軍から返還され、東京国際空港に。
◎東京有楽町の電電公社サービスステーションに、硬貨投入式の公衆電話が初登場。
◎松下電器(パナソニック)が国産テレビ第一号機の公開実験。発売は29年で29万円。
◎早川電気(シャープ)も三種サイズのテレビの生産を開始。
◎東京電気工業(TDK)磁気録音テープの生産を開始。
◎本田技研が原動機付自転車「カブ号」を発売。
◎建設省が一級国道41路線を指定。
◎和光商事(ワコール)が、わが国初の下着ショーを大阪・阪急デパートで開催。ただし、男子禁制。

◎たばこの「ピース」、工業デザイナーのローウィ作の鳩のデザインに。デザイン料150万円が話題に。
◎砂糖が13年ぶりに自由販売となる。
◎人造バターの名称を“マーガリン”と変更統一。
◎即席カレー、魚肉ソーセージが登場し、人気になる。
◎内田洋行が、マジックインキを発売。
◎大相撲の4本柱がなくなり、吊屋根に4色の房がつく。
◎大阪讀賣新聞創刊。
◎芸能娯楽誌「明星」創刊。
◎「アサヒグラフ」の原爆被害初公開写真掲載号が即日売り切れとなり、52万部を記録。
◎神戸放送(現・ラジオ関西)が日本の放送局では初めての電話リクエスト番組を実施。
◎NHKラジオドラマ「君の名は」が放送開始。確かに大人気とはなるが、“女湯が空になる”というのは、映画人気を煽るためのつくり話。

■流 行:スクーター・ナイロンブラウス・風船ガム。
■テレビ:
■邦 画:黒沢明/生きる・新藤兼人/原爆の子・今井正/山びこ学校・山本薩夫/真空地帯・溝口健二/西鶴一代女。
■洋 画:マルセル=カルネ/天井桟敷の人々・ヴィクター=フレミング/風と共に去りぬ・チャーリー=チャップリン/チャップリンの殺人狂時代・キャロル=リード/第三の男。
■ 歌 :江利チエミ/テネシー=ワルツ・美空ひばり/りんご追分・渡辺はま子/ああモンテンルパの夜は更けて・神楽坂はん子/ゲイシャ=ワルツ。
■ 本 :野間宏/真空地帯・大岡昇平/野火・俘虜記・壷井栄/二十四の瞳・吉川幸次郎・三好達治/新唐詩選・アンネ=フランク/光ほのかにアンネの日記。
■ことば:ヤンキーゴーホーム・火炎ビン。


❖年表の元ネタ主な参考資料三省堂『コンサイス世界年表』三省堂編修所編。河出書房新社『昭和・平成 家庭史年表』下川耿央・家庭総合研究会編。小学館『昭和・平成 現代史年表』神田文人編など。

dendenmushi.gif(2014/11/20 でんでんむし蛇足の記)
 小学校の5年か6年くらいのことだったが、夜中に猛烈な腹痛を起こして、翌朝叔父が背負っていちばん近い病院に運ばれ、急性盲腸炎の診断を受けて手術をしたことがある。数年前に白内障の手術を受けて入院するまでは、それがでんでんむしが経験した唯一の手術入院経験だった。
 当時の医療技術からすれば、盲腸でも死亡する人がいたくらいであったらしいから、術後の麻酔がとけるときの痛みと苦しみはたいていではなかった。その晩は、そばには祖父が付き添ってくれて、話をしてくれた。
 「いい機会かも知れないから、話しておくがわからなくていい。聞きながら眠ればよい」という前置きをして、祖父が語ったのは、わが家の“歴史”であった。
 いろんな人の名前が出てきて、やはりよくはわからなかったが、小学生なのでムリもない。だが、このときに半分眠りながらうとうとと聞いた話は、終生忘れ得ぬものとなった。
 後にも先にもこのときだけだったが、あとあとになって祖父にはもっともっとたくさんの話を聞いておくべきだったと、悔やまれてならない。
 1886(明治19)年に広島の呉広町で生まれている祖父は、1958(昭和33)年に広島で亡くなるまで、72歳のそれなりに波乱に満ちた生涯をおくっている。偉人伝に語られるような人物でもなく、立身出世をなしとげたというわけでもない市井の一庶民ではあったが、やはり人の一生はいろいろあるものだ。
 働き者である。男気がある。学はないが曲ったことのない、まっとうな生き方をした。左官の棟梁として数人の弟子をかかえ、原爆が落ちる前までにひとかどの成功も収めた。なにをやらせても器用にこなせる。おそらく無人島でサバイバルという状況でも生き延びられる、そういう人であった。
 原爆のときには家のなかにいて、爆風で倒壊した家の下敷きになるが、火が回る前に自力で脱出し、井戸の水をかぶって焔の中に飛び出し、外出中だった妻を探し出す。しかし、大火傷を負ってほとんど意識不明のまま動けないそのからだを背負って(途中からは戸板に乗せて引いた)、一里以上離れた郊外の畑小屋まで連れてきた。
 そういう豪胆さもあった人だが、原爆で家も妻も築き上げてきたものを失い、戦地に赴いたままの息子も帰ってこないとわかってからは、郊外にひきこもったまま、本人が言う“にわか百姓”をしながら細々と暮らし、残された孫を育ててきた…。
 晩年は病に苦しむことも多かったのが気の毒だったが、こどもにできることも、気がつくことも少なかった。もっと早く大人になって、祖父に楽をさせたい、少しはいい思いもさせてあげたいという気持ちは、なんとなくあったものだ。
 ただ、どうしたらそれが可能なのかがわからない。
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タグ:年表
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コメント 2

ハマコウ

おはようございます
父や叔母を亡くしてから 
もっと家のことをたくさん聞いておけばよかったと思っています
その機会は自分で作らなければできません
息子たちに伝える機会をいつにしようかと考えます
by ハマコウ (2014-11-21 04:30) 

dendenmushi

@みんな誰でもそう思うんですよね、後になってから…。今の日常の家庭生活は忙しいし、みんな個々だし、昔語りをする・聞く機会というのが、まったくないですものねえ。
ほんとうは学校の課題にでもなる、適当ないい題材なんだけど、この頃はすぐにプライバシーがどうのということになるので、それもむつかしい…、ですね?
わざわざというのもムリがあるので、ちょこちょこと日常の中に織り交ぜるというのは、どうでしょうかねえ。
by dendenmushi (2014-11-21 06:12) 

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