番外:湧別から遠軽へ=紋別郡湧別町芭露(北海道)サロマ湖は遠くサンゴ岬も見えないし湧網線はなくなってしまい代替バスもない [岬めぐり]
北海道の開拓地では、どこでも同じようなことがあったのだろうが、湧別川の流域と河口付近に和人がやってくる前は、アイヌがその雄大な自然のなかでムリをせずに、自分たちのリズムで暮していたことだろう。そのもっと前には、石器時代独特の様式をもつ黒曜石などの遺物も発見されているので、北海道も“人も住まぬ未開の地だった”などと片づけるのは間違っている。決して、人の歴史が浅い地域ではないが、アイヌが文字をもたなかったこともあって、その足跡が記録に表われるのは、やはりずっと後になる。
河口左岸には、シブノツナイ湖・コムケ湖が海辺に閉じ込められており、右岸にはだいぶ離れてはいるがサロマ湖が大きく展開するこの地域は、原生林に覆われていた。
そこを切り開いた最初は、やはり漁業であって、1815(文化12)年頃から和人の場所請負人がやってきて番屋を建て、湧別川の河口付近に漁場を開いた。この当時の番屋経営も、当初には雪解けに来て秋には帰るというもので、定住する者はいなかっただろう。
因に、「ユウベツ」は、アイヌ語で「鮫(サメ)の住む川」という説が流布しているようだが、「ユベ・オツ=蝶鮫・多い」、あるいは「イベ・オツ・イ=魚・豊富・所」のほうが納得性が高いような気がする。
1882(明治15)年に網走郡役所の役人を辞めた半沢真吉が移住してきて、漁師やアイヌたちに農耕を指導し、奨励し土地の開墾を始めた。それが湧別原野に和人が定住して、農耕のため土地を拓くようになった最初であるという。
紋別のバスターミナルを出たバスが、ふたつの湖の南を湖面が見えることもなく通り過ぎ、湧別川を渡ると、まもなく四角に仕切られた道を曲りながら静かな町の中を通る。車窓から見ていて、おやっと思ったものがあったが、写真は撮り損ねた。それは、元村発祥の地とか、商店発祥の地とか、確かそのような文字が書かれた白い標柱であった。
おおよその想像で、なるほど、湧別の町はここから興ったというわけだな、と一人納得していると、ここでも立派なお城のようなハコモノの建物があったり、温泉施設があったりするなかに、機関車やプラットホームや跨線橋までそのまま残した駅の跡が記念館になっている。
ここが、名寄本線・湧網線のターミナルとなっていた中湧別駅だったところだ。ここからサロマ湖の南を通り、オホーツク海にいったん出て、能取湖の岸をめぐりながら網走駅まで走っていた湧網線は、国鉄分割民営化直前の1987(昭和62)年に廃止されている。前項で書いたように、でんでんむしが初めてやってきてこの線に乗ったのが1986年なので、まさに廃線前年であった。活躍した時期はわずか37年ほどでしかなかった湧網線の、サロマ湖の冬景色の美しい車窓風景は、今でも記憶にある。
そのときにも、おそらく眺めていたであろう岬が、サンゴ岬とキムアネップ岬である。
今回も、なんとかサロマ湖西岸のサンゴ岬まで行けないかと、いろいろ調べてはみたのだが、この北紋バスが唯一の公共交通機関で、それは湧別から東へ行かず、南に折れてまっすぐな道を向かい、遠軽へつながるのみなのである。
歩くには、往復12キロで一日仕事になってしまう。湧別の役場で自転車でも貸してくれないだろうかとも考えたりしたが、自転車も宿泊施設もないようだ。湧網線は廃止しっぱなしで代替の交通機関がいっさいないので、真っすぐな道をずっと行けば、サロマ湖の芭露(ばろう)にあるサンゴ岬はあきらめざるを得なかった。
この道に限らず、湧別の道路はすべて整然と四角に区画整理されてできている。これは、湧別が計画的殖民地であったからで、その開拓を推進したのが、1897(明治30)年の第一陣入植に始まる屯田兵であった。現在の地図にも、北兵村や南兵村、1区、2区といった地名は、屯田兵が入植した当時の名残りである。
真っすぐな道を行くバスの乗客は、この付近の路線バスとしてはめずらしく多く、“湧別7号線”などと番号のついた停留所で乗り降りが繰り返しつつ進むと、そのバス停がチューリップの形になったり、チューリップ公園などの施設があったりする。
湧別はチューリップの町なのだ。今はもっぱら観光用のチューリップも、昭和30代のはじめに当時の農業改良普及所長が、農家の収入を増やすには収益性の高いアスパラガスとチューリップが有望だと推奨したことで、一時は輸出も順調に伸び外貨獲得に貢献していた。
17世紀のオランダのチューリップ投機が経済の大混乱を招いたこともあるが、1966(昭和41)年にはそのオランダ市場の値崩れで、打撃を受ける。輸出が伸びなくなり、国内需要もまだ広がりがなく、湧別のチューリップは衰退してしまう。
それを復活させたのが、生産農家のチューリップへの深い愛着と老人たちのボランティア活動だったといわれている。
広い畑のなかに、四角い枠に丸い球根のようなものが入って、上から雨よけのシートがかぶせられている。それが、バスが進む左右の畑の中に、たくさん散らばって置かれている。
さては、これがチューリップなのか!?
しかし、よく見るとチューリップにしては大きい!?
チューリップの球根は秋植え春咲きであるから、これから植えつけるのか!?
しかし、観光用にしては広いし、球根栽培用としては富山の砺波ほど有名でもないよな〜。
そんなことを、もやもや思っているうちに、バスが遠軽に着いた。JR石北本線遠軽駅は、少し高いところにある。名寄本線とつながっていたので、ここは石北線がムリに引き込まれたようになっている。つまり、スイッチバックのようになっているため、石北本線の車両はここで進行方向が逆になるのである。
後ろにいたカップルの観光客が、イスの回転に戸惑っていて、回りにいたおじさんが教えているが、言葉がわからない。中国人らしい。
湧網線がなく、代替のバスもないとなれば、湧別から網走に行くには、この遠軽経由しか方法がないのだ。
遠軽から網走へ行く途中、特急「オホーツク1号」の車窓からは、留辺蕊から北見にかけても、シートの帽子をかぶったあの四角の枠と球根のようなものがたくさん見られた。そう、あれはチューリップではなくて、湧別では比較的遅く昭和43年頃から栽培が始まったタマネギなのでした!!
▼国土地理院 「地理院地図」
44.1807, 143.67445
北海道地方(2014/09/28訪問)
タグ:北海道
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