番外:おうむ道の駅と鉄道夢の跡=紋別郡雄武町雄武(北海道)いまはなき興浜南線の雄武駅の跡で辿る鉄道への想い [番外]

モダンな展望台を備えたその建物には、商工会議所のようなものも入っていて、1Fが道の駅とバスの待合室になっている。雄武のバス停は、「おうむ道の駅」の前にある。

その場所は、国道238号線からロの字になってバスの動線が引き込まれているので、この場所がかつての興浜南線の雄武駅の跡なのだろう。南線の起点終点であり、興浜線の工事が北へ向けて始まった雄武駅の跡には、人々のなくなってしまった鉄道への想いが、怨念の成仏を願うかのように残っているように思えたのであった。



興浜線の名は、興部(おこっぺ)と浜頓別の間を繋ぐという意味である。これが開通すれば、北から天北線・興浜線・名寄本線・湧網線・釧網本線とつながって、オホーツク海沿岸を南北に縦貫する鉄道網ができるはずであった。
天北線の浜頓別から北見枝幸までは、1936(昭和11)年に興浜北線が開通していた。一方、名寄本線の興部からは雄武までは、1935(昭和10)年に興浜南線が営業していたのである。

先行して開通していた興浜北線・興浜南線にしても、太平洋戦争が厳しさを増すなかで不要不急線として全線が休止となってしまう。全線路が撤去されて、樺太の鉄道用に転用される計画であったが、その線路の輸送を始める前に終戦となった。
戦後地元ではいち早く鉄道の復活に力を注ぎ、間もなく休止していた鉄路が復旧する。

そして、途切れていた興浜南線の雄武と興浜北線の北見枝幸の間は、少々時間がかかったが、それでも、1966(昭和41)年から雄武でまず工事が始まり、枝幸町の西音標までの間では路盤工事が終わっていた。
ところが、ちょうどその頃から、全国的に地方の過疎化とモータリゼーションの急激な進行が始まる。あわせて親方日の丸の国鉄の赤字が大々的に問題視されるようになって、雄武=北見枝幸間の工事は1977(昭和52)年度をもって中止されてしまう。
その後も、1980(昭和55)年には国鉄再建法が成立し、人員の削減や地方の新規路線の建設凍結対策が打ち出され、特定地方交通線の国鉄からの分離・バス転換が進められていくことになる。既開業区間であった興浜北線・興浜南線ともに、第一次特定地方交通線の指定を受け、南線・北線ともに1985(昭60)年に相次いで廃止され、バスに転換されることになった。

ざっと整理してみると、ここの鉄道の経緯はそんなところだろう。
その後も現業部門の民営化が続くことになるのだが、国鉄の分割民営化は、世論にも一応支持され、うまくいったほうと言えようか。巨額の累積債務の処理が表向きの理由であったが、実は国労・動労つぶしであったことも明らかで、それを推進した中曽根首相自身がそれを隠してはいなかった。

合理化・民営化に反対する組合の主張は、国民には受け入れられなかった。それくらい民営化前の国鉄の状況はひどかった。でんでんむし自身も、出張で出かけた名古屋駅では、コンコースに機動隊員が立ち、出札口のガラスが全面厚いカーテンのようなもので覆われ、小さな開口部に口を寄せて行く先を告げ、そこからお金を差し出すと手しか見えない職員から切符が投げ返されてきた、という異様な経験をしたことがある。あれはいったいなんだったんだろう。
結局、政権の思惑通り、国労・動労つぶしは成功した。ストもあれば赤字路線も政治路線も、まあいろいろあったけれど、それらはともかくとして、鉄道が地域の背骨の役割を果たしていた時代は長い。バスに代替するというのは、およそ次元が違うと思えるくらい、鉄道が走っているということの意味は大きいと思う。

雄武から宗谷バスで枝幸へ行き、枝幸から神威岬まで往復して、また枝幸から雄武まで戻ってきた。もう夕暮れで道の駅は閉まっていたが、展望台には明りがついていたので、もう一度登ってみた。

この日は、ここから遠くない民宿オホーツク荘に泊まり、翌朝早い便でまず紋別まで行く。早朝、バスの駐車場になっているところに「歴闘50年」という記念碑(誰が建てたのかよく確認しなかったので、“歴闘”の意味がいささか不明だが、そこでは「おむ OMU」となっていた)が建っていた。また、次の駅名が「栄丘」としてあったので、これは興浜南線の記念碑だ。

ここらへんに、機関車の向きを変える円形の転車台があったのだろう。
というのは、待合室に昔の戦時中の雄武の様子を、当時のこどもの目で描いたイラスト画が掲示してあり、その絵の中に“転換キ”としてこども押して回したと書いてあったからだ。

▼国土地理院 「地理院地図」
38.068776, 138.440344




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