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1116 沢崎鼻=佐渡市沢崎(新潟県)佐渡島最西端の岬と灯台まで与謝野晶子はやってきたのかどうか [岬めぐり]

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 沢崎鼻は、佐渡島の最西端である。最東端は佐渡の弁天その1の弁天崎で、最南端は見えなかった新谷岬、残るは最北端の弾崎(2014年の台風余波による佐渡大雨では、全国ニュースでその名が伝えられた)だが、それはおいて…。
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 最西端の沢崎の集落は、深く切れ込んだ入江の奥に、ちんまりとある。宿根木線の朝一番のバスで小木強清水から終点のここまでやってきた。バスは港の狭い広場でただ一人の乗客を下ろすと、すぐに向きを変えて行ってしまった。港には小学生が数人わいわいと固まっていたので、それを乗せていくのかと思っていたのに、置いて行ってしまった。あれ、と思うまもなくすれ違いに佐渡市のスクールバスが来て、そのこどもたちを運んでいった。
 そういえば、小木から西ではどこにも学校らしきものがなかった。沢崎のこどもたちは、7キロ以上も離れた佐渡弁天その5に近い小木小学校まで通うらしい。
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 沢崎の集落から西に高く盛り上がっている灯台が立つ台地は岡の平といい、江戸末期には異国船警備のための台場や遠見番所が置かれた。
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 広い立派な道路の脇には、沢崎集落のお墓もあり、自動車やセニアカーで登ってくる人がいた。セニアカーもこの辺りだと安心して乗れるし、便利だろうな。この道路はこの先山の上を迂回しながら、国道350号線につながっている。
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 道路の西側に立つ灯台は、燈光会看板も立つ沢崎鼻灯台で、その下の枕状溶岩の岬が佐崎鼻。
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 燈光会の看板によれば、与謝野晶子は「沢崎の灯台に身をなぞらえてはし鷹立てり一つの岩に」という歌を詠んでいるという。この歌の大意からすると、これはなにも沢崎で詠んだということではないのではないか。船の上からとかのような気がする…。
 沢崎灯台ができたのは1928(昭和3)年なので、晶子の亡くなる14年前である。
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 全国を歩いていると、歌碑や句碑・記念碑などは少なからずあるが、なかでも、大町桂月と与謝野晶子と野口雨情(かな? 三番手はちょっと微妙だけど)は数の多い点では三大巨頭ではないか。(統計をとったわけではなくあくまで感じで)
 当時の文士や詩人たちの地方への旅行は、ある意味稼げる巡業であったはずで、自然そうしたものも多くなる。
 へそまがりでんでんむしは、そういうのに出会うと、(とくに大町桂月などは)フンと思ってしまう。
 だが、与謝野晶子については、少し考えを改めていた。彼女が地方巡業に精を出していたのも、夫である鉄幹の稼ぎが悪いうえに、11人のこどもを育てるのに大変だったからだ。がんばったよね、おかあさん。
 沢崎には、与謝野晶子の歌碑は、なかった(と思う)。
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 沢崎から北側、神子岩から先も、まだまだ岩礁の複雑に入り組んだでこぼこの海岸線が続いている。いちおう細い道路があるにはあるのだが、バスは通っていないので、ここから引き返す。
 沢崎の集落を見下ろす橋が入江に架かっているが、これを過ぎてなおも歩いて行くと、深浦のところではもっと大きな橋がある。これが長者ヶ橋。
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 200メートル以上もある大きな橋の一部は、近頃はやりの吊り橋式(専門的に正しくはエクストラドーズド橋)になって、その巨大な橋柱には宿根木の項で紹介していた、柴田収蔵の世界地図が大きく掲げられていた。
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 この橋ができたのは平成14年度とごく最近のこと。それより以前にはバスも沢崎までは行けなかったし、船でこの入江を横断していたがその船が転覆したりしている。
 やっぱり、与謝野晶子が沢崎までわざわざやってくるには、相当困難の多いルートだったはずだ。
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▼国土地理院 「地理院地図」
37.822028, 138.20475
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dendenmushi.gif信越地方(2014/05/16訪問)

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