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1114 弁天崎=佐渡市小木(新潟県)北前船も寄港した港では相川から運んできた金銀をここで船に積みかえただろうし… [岬めぐり]

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 明治中期に町制を敷いて以来続いていた小木町も、畑野町、真野町、羽茂町、赤泊村などとともに、2004(平成16)年の合併で佐渡市の一部になり消滅した。だが、小木町になる以前から、小木は佐渡のみならず、広く聞こえた有名な港があるところだった。
 相川に金山が発見されてからは、発掘された金銀は小木へ運ばれ、ここで船を得て出雲崎へ向かった。
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 また、1672(寛文12)年に川村瑞賢が開いた、北前船の西廻り航路の寄港地にもなったことは、小木港を日本海航路のなかでも重要な位置に押し上げてきたのだ。瑞賢の敷いたルールでは新潟に米を積みに入る船は、まず船の出入りに都合がよく避難港としても便利な小木に寄って手続きをし、その順番で新潟港に入ったという。
 小木の街と港は城山という小山がある出っ張りによって、東西に分けられていることは、前にもふれた。
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 小木の弁天崎は、西の港がある小さな入江の西口に位置している。この西の港は“内ノ澗”といいい、東の港を抱える湾は“外ノ澗”と呼んだ。どの程度の実用性があるのかは不明だが、現在の地図でもちゃんと、そう表記してある。
 “澗”とは“ま”または“うるま”といい、もとは水や谷間を示す字だが、船着場(港)のことと考えてもよい。ここでは、そのまま、内と外の二つの港の呼び名になっている。
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 天然の良港というありきたりな表現がぴったりの港を、木々にみっちりと覆われ、西側で飛び出して外海の波浪から守っている弁天崎は、先端に丸いお椀を伏せたような小島を伴っている。その先ではさらに防波堤が伸びている。
 内ノ澗は主に漁港になっていて、外ノ澗はフェリーや観光船の港になっている。町のほうも、内ノ澗のほうが古くて昔からの小木だったようだ。
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 内ノ澗のすぐ後ろは低いながらも山が続いているので、港の街は数本の道路がやっと通るくらいしかなく、狭い地域にみっちりと家並みが集まっている。この町並みは、ちょうど京都の町家のように、間口が狭い割には奥行きがある、縦に長い家が多いようにみえる。
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 民家の軒先には、申し合わせたように街灯と表札を兼ねたような行灯型のものを掲げ出している。これは、“田楽提灯”というらしい。
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 それに対して、外ノ澗のほうは後から開けた新しい町のようで、小さい入江に沿う古い町の限界を越える過程でできたものと思われる。内ノ澗と内ノ澗、二つの港に面した町はほんの少し盛り上がった馬の背のようなところをを越えてつながっている。
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 小木の弁天崎と向い合って、内ノ澗の港を固めている40メートル足らずの城山は、その真中で南に飛び出ている。
 そこには、木崎神社の赤い鳥居があり、その名がかつてはこの城山が木崎という岬の名をもっていたことを偲ばせてくれる。
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 木崎神社の下の港は、とくに御座の澗という名も独自についていたようだ。そこは、相川から運ばれてきた金銀を積み込む船が停泊する特別な岸壁であったらしい。木崎神社は、そういう金銀を一時保管管理する場所でもあったのだろうか。
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 ものがものだけに、港のそこらに積んでおくことはなかったはずで、となれば、城山を背後に控えた木崎神社のあたりは、また神社であるから普通の町家や新たに設けた倉庫などのような施設と違い、警護もしやすく好都合だったと考えられる。
 これが、佐渡の弁天その5である。

▼国土地理院 「地理院地図」
37.811853, 138.271892
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dendenmushi.gif信越地方(2014/05/16訪問)

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タグ:新潟県
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