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1105 弁天崎=佐渡市多田(新潟県)佐渡の稲作発祥の地で三助とお菊の話は不自然なことが多すぎるのだが… [岬めぐり]

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 佐渡の弁天その3である。鴻ノ瀬鼻の南、多田(おおだ)の町に近いところにある弁天崎は、これまでの弁天その1、弁天その2と地形的にはよく似ている。山が海に向かって落ちてきて、その下を道路が走る。道路脇から海に張り出した島のような岩の小山がある…それが共通している。
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 そして、もちろんその名前の由来となる弁天社が祀られている。
 こういう岬は、佐渡に限らず全国各地に多い。弁天信仰の広がりを示すものだが、単に女性神で人気があるだけでなく、海岸の弁天さんには豊漁や海上安全などの実利的願望が託されてきたからだろう。この実利的願望が膨らみ過ぎて鎌倉の銭洗弁天のようになってしまうと、弁天さんもさぞかし迷惑しているのではないかと思うが、佐渡の弁天さんはもっと素朴なようである。
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 岩ゆり岬との通称もあるらしい多田の弁天崎は、小山は前二者と比べるとぐっと小ぶりで、岬というより岩礁が飛び出しているようだが、いくらか道路に分断されたような様子もある。
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 佐渡の南に横たわる山地を横断して中央部と東海岸を結ぶルートには、主にその南部で三つある。代表的で交通量がもっとも多いのは、小木線と国道340号線であろうが、路線バスが横断する山越えルートが、岩首線と赤泊線である。
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 岩首線は、西海岸の佐和田から平坦部の中央を横切り、畑野十字路から山を越えて多田ヘ出て、そこから北へ松ヶ崎から岩首へのルート。赤泊線は、佐和田から海岸に沿って真野に向かい、そこから梨の木越えと言われるルートで山越えして赤泊を経て小木まで。
 現在のバス路線も、昔からのルートをなぞる場合も多い。まして佐渡のように他のルートが自在に選べるような状況になければ、ほぼ路線バスのルートと同じような往還が昔からあったと考えるのが、まず妥当だろう。そうしてみると、松ヶ崎に着いた日蓮さんは、どのルートで山越えをしたのだろうか。
 普通に考えれば、上陸地に近い多田からの山越えが最も有力であろう。だが、赤泊にも日蓮ゆかりのものがありそうなので、なんとも言えんか。
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 多田は、前浜線が平坦部中央の畑野十字路から男神山、女神山を巻いてくねくねと降りてきた川筋と海辺に展開しており、中規模の漁港もある。集落と言わず町と書いたのは、学校も郵便局もあってこの付近では赤泊につぐくらいと思えたからだ。中学校の名は松ヶ崎中学校というので、この付近はひっくるめて松ヶ崎と称されていたと思われる。弁天崎からすぐそばに町外れの郵便局と漁港の間に河内川が流れてくる。その橋の袂に、銅像やら石碑やら立て札が並んでいる。
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 銅像などを設置する場合は、その周辺の背景をもっと考慮すべきだと思うが、だいたいにおいてそんなことまで気がまわらない。ここもそうである。
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 バックに電線やごちゃごちゃが入らないようにして撮った、銅像の主は、なかなか賢そうで美しい男女の若者である。女性のほうは稲の束をもち、男性のほうは鋤を持って立つ銅像なのだが、これがここに立っている由来がまた非常に興味深い。銅像と並び立つ“佐渡国稲作発祥の地”という石碑の隣に埋め込まれた金文字の碑文は、こう語る。
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 多田(おおだ)と三助、お菊の由来
 天智天皇(西暦668〜671)の頃、四国の土佐の国(高知県)の農夫、永楽又兵衛のせがれ三助は、継母にいじめられ佐渡へ流されることになった。このことを聞いた三助の実母は大変に悲しみ、ひそかに籾三升に鋤、鍬、鎌などをそえて与えた。三助はつつがなく佐渡の国多田海岸についた。
 またその頃、小木棹崎に加賀の国(石川県)から流されたお菊という女がおりそのお菊と三助が出会った所がこの地で、地名を「逢田」と呼び、中世には、「大田」となり、今は「多田」となっている。こうして、三助 お菊はめぐり逢い夫婦となり、実母からもらった籾を蒔いて稲作りを始めた。
 お菊が植えた稲を「加賀早生」といい、三助が植えた稲を「土佐三助」といった。ここから、西北方に男神山と女神山という二つの山が並んでいるが、佐渡で最初に稲作を始めた作神として、三助 お菊をそれぞれ祀った山である。
                平成10年11月吉日

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 まず、この碑が建てられた平成10年当時は、この多田は新潟県佐渡郡畑野町(はたのまち)であった。畑野町は、佐渡中央の国中平野の真ん中畑野十字路のあたりから山々を含んで東海岸に至る町域をもっていたが、2004(平成16)年の合併で消えた町なので、現在ではない町名である。
 その畑野町が、合併の6年前に立てたせっかくの碑の説明だが、どうもこの碑文は、文脈がおかしい。実は弁天崎にももうひとつ、佐渡市佐渡観光協会の説明板が立っているので、ついでにこちらのほうも読んでみよう。

 三助・お菊いこいの地
 佐渡国の始耕・稲作りを教えた三助・お菊の伝説は各地に残っている有名な伝記の一つです。土佐国(高知県)の永楽又兵衛という農夫の倅三助は継母にいじめられて佐渡へ流されました。三助の実母は悲しみ、三助の遠流に先だって、籾三升に鍬・鎌を持たせました。佐渡に着いた三助はやがて能登の国から流されたお菊という女に多田の浜でめぐり逢い、二人は夫婦となり三助のもってきた籾をまいて稲を育てました。これが佐渡の稲作の始まりといわれ三助夫婦がこの多田の地で巡り逢い、農耕をしたことから、逢田といい中古には大田となり、いまは多田となっています。多田沖田には夫婦の使った鍬・鎌を納めた塚がありました。また多田の西北方に男神山・女神山という二つの山が仲良く並んでいますが三助・お菊をそれぞれ祀った山とされています。この地は佐渡七弁天崎の一つであり三助・お菊が真夏に語り涼んだいこいの地といわれています。それに弁財天の祠と青竜大権現を祀った小社があります。

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 これも、もともとの畑野町観光協会が残した資料を写したものらしいが、こちらでは土佐と加賀の二品種のくだりが省かれている。
 しかし、両方つき合わせてみても、この話には疑問や不自然さが多い。そもそもなぜ土佐のような遠いところから佐渡へ流されるのか、またその理由も腑に落ちない。継母のいじめって、永楽又兵衛という立派な名をもつ父親は、いったいなにをしていたのか。それに能登からというのはありそうだが、お菊が籾をもって流される理由も不明である。小木の棹崎というのは、どこなんだろう。その二人が、どうして多田で出会うことになったのだろう。
 同じ話をつくるなら、“逢うた”→“逢田”→“大田”→“多田”と、多田を“おおだ”と読ませることになる理屈付けは、手を抜けない肝心なところであるはずだ。それに、山に二人を祀るというのも、気持ちはわかるがちょっと変だ。
 この話どこまで持ち上げていいのか、疑問は多いのである。もともと伝説の信憑性を問うこと自体があまり意味がないのだが、佐渡市や佐渡観光協会は、ネット情報ではこれを無視しているようなのだ。だが、弁天崎には説明板を置いている…。
 そして、こっちのほうでは、弁天崎が二人のいこいの場所であったといい、各地にある有名な伝説の一つというのも気になる。佐渡にはほかにもこういう話があるのだろうか。
 とにかく、この説明で多田の名の由来と、佐渡の七弁天といわれていることがわかった。あとまだ4つ弁天の岬はあるわけだ。

▼国土地理院 「地理院地図」
37.913941, 138.484916
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dendenmushi.gif信越地方(2014/05/15訪問)

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タグ:新潟県
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