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1093 西浜崎=宮古島市下地(沖縄県)下地の象の鼻の上から見る岬はまるで緑の板が与那覇湾を囲って… [岬めぐり]

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 旧平良市には池間島が含まれていて、旧下地町には来間島が含まれていた。宮古島南西部の宮古空港より南側一帯が、合併前の下地町にあたる。宮古島でも住所表示をごく大雑把にまとめてしまっているので、旧字名のほとんどがわからなくくなっている。狩俣もそうだが川満も地理院地図には小さく表示してあるものの、具体的にはバスの停留所くらいでしかわからない。
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 そのバス路線は島の北部以外は宮古協栄バスの縄張りで、国道390号線を走る与那覇嘉手苅線に乗って西浜(にしぱま)崎が見えるところまで行く。
 東西の平安名岬のように、細くて長い岬はその先端まで歩いて行ってもさしておもしろいことがない。…ないことが多い。
 とはいえ、西浜崎は東平安名岬のような自動車道がないだけましなので、与那覇までのバスの便がうまく合えば歩いて行くつもりだったのだが、やはり折り合いが悪い。川満で降りて与那覇湾越しに西に横たわる岬を眺めるほうがよかろう。
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 せいぜいが5メートルくらいの高さしかない。幅も岬の北半分の1キロくらいは200メートルもないくらいだ。横から見るとただ平べったい緑の板を、海の上に浮かべたようだ。
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 こういういかにも頼りなげな陸地がつくる風景もまた、珊瑚礁の島が連なる先島諸島の特徴のひとつであろう。なかなか本土ではお目にかからない岬である。
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 広く北に向かって開いた与那覇湾。西浜崎からはさらに湾口を挟んで北の対岸にあたるところは、下地ではなく平良の西端になるのだが、ここに久松という字地名がある。Mapionでは、この港に“∴久松五勇士顕彰碑”という表示がしてある。
 日本海海戦開戦前、バルチック艦隊が日本近海のどの海域を通り抜けてウラジオストックに入ろうとしているか、これを迎え撃とうという日本の連合艦隊にとって、早期にそれを発見してコースを知ることが最大の関心事であった。そういう時期にそれをいち早く目撃した漁民ら5人が久松からクリブネを漕いで電信施設のある石垣島まで急報に向かった、という出来事があった。そのことは前にも書いたことがあった(「252 平久保崎」の項。記憶に間違いもあって後で訂正したりしていた) のだが、これがその五勇士の集落であり、船を漕ぎ出した港なのであった。
 そういう現場に遭遇すると、単に本で読んで得た知識が、むくむくと動き出してくるような気がする。だが、今回はそこまでは行けないので、与那覇湾から見るだけ。
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 だが、それだけでも前に間違えていたこともあるので、説明が足りないか。そう思って宮古島市役所のホームページ でどのように書いているかを参照してみた。

 日露戦争の際、日本海へ向け北上するロシア・バルチック艦隊を宮古島民が発見。久松の漁民5人が、その旨を伝えるため電信施設のある石垣島へクリ舟を漕ぎ、荒波を乗り切り、その任務を果たした。クリ舟をかたどった碑は、124キロの荒海を乗り越えた彼らの勇気と偉業を称えたものである。

 宮古島市のページは全体的に、意外にあっさりしているので、ただこれだけである。
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 宮古空港がこの湾の東側に位置しているので、旅客機がちょうど西浜崎のうえを飛んで行く。
 横浜港の「象の鼻」を連想させるような(そんなものまで持ちださなくても…とか言いながらリンクつけたりして) 石組みの突堤があったり遊歩道のようなものがあったりするこの付近。ヒルギの苗木も生えてきているが…。
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▼国土地理院 「地理院地図」
24.768602, 125.261858
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/02/21訪問

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タグ:沖縄県
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