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なぜか気になる日本の最西南端八重山の歴史そのポイントを改めて整理してみる(50) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

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 「でんでんむしの岬めぐり」のサブテーマともいえるのが、「地図」である。岬をダシにしながらその国土地理院の各地域地図をあわせてつなげているのだが、そもそも八重山という地域に興味をいだいたのも、地図を通じてのことだった。
 中学生になってもらった、インクの香りもうれしい真新しい教科書のなかに、帝国書院の地図帳があった。これがうれしくて毎日それを広げて眺めていたのだが、日本周辺の地図をみていると、いろんなことに気がついてくる。アジア大陸の東の端では、およそ三つくらいの半円弧が北から南に連なっている。北はカムチャッカ半島から千島列島が目立たぬほど緩いカーブで北海道東部に達している。北海道から九州にかけての日本列島もまた、全体が弓なりになっていて、中央の関東から南に伊豆諸島と小笠原諸島が点々と帯を描く。その東の海は濃い青色で示された海溝の長い割れ目が切れ込む。
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 九州の南からは、またひとつ別の弧を描くように、南西諸島と呼ばれる奄美群島、沖縄諸島、宮古列島、八重山列島、そして尖閣諸島の島々が、台湾のそばまで続いている。この日本の南西の端っこにある島々とは、いったいどんなところなのだろう。
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 太古には大陸と地続きであったものが、地殻の変動と海進によって、弧状の島々が残されたといわれているが、八重山の場合は中新世の八重山層群がその基盤になっているらしい、と「1083 馬鼻崎] の項 で書いていた。中新世というのは、およそ2000万年〜1000万年頃の時代で、ちょうどその頃に日本海が拡大をしていた。
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 しかし、南西諸島で最も古い時代の地層には、もっともっと昔、約1億7000万年前の中生代ジュラ紀にできた地層というものがある。これが石垣島の北部にあるトムル崎付近にあるので、その名もトムル層という。ジュラ紀というのは、バンゲア大陸が分裂し、裸子植物が繁茂し、始祖鳥が現れておなじみの恐竜が跋扈を始める頃である。
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 人類が、いつ頃からこの島々に住み始めたのか、まではわからない。だが、日本でいちばん古い人骨が発見されているのが、この石垣島なのだ。これについてもあちこちでちょこちょこ書いたような気もするが、2010(平成22)年に、およそ2万年前(放射性炭素年代測定)の人骨が石垣空港の近く、竿根田原の洞窟からみつかっている。それまでは浜松の浜北が最古とされていた、日本最古記録を更新する発見だった。
 日本人の起源については、さまざまな説があるが、柳田国男は『海上の道』で南方渡来の可能性を示し て注目され、南方起源説は今も有力なひとつの見方となっているといってよいだろう。
 縄文時代も弥生時代もなかった、といってもいいのだろう。先島諸島では約2500年前から無土器文化といわれるまだ謎の多い時代が続いて いて、シャコガイ製の貝斧や石器や食物の調理に使う焼石などが発見されているところから、南方諸島との類似が際立っている。
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 その後に12〜15世紀頃に栄えたクスの時代を迎えると、主に台湾や大陸との間でスパイスや宝貝に陶磁器などの交易も盛んになり、石垣島大浜を本拠としていたオヤケアカハチ 、石垣周辺の長田大主、川平の仲間満慶山らが割拠する。オヤケアカハチは波照間島の生まれだが、その言い伝えによると、外国人との混血であったらしい。
 御嶽と真乙姥から大阿母の地位を託された多田屋オナリを中心とする八重山独特の南の海から神を迎える祭祀 も、琉球のキコエノオオキミの影響下に組み入れられ、琉球王朝の支配下に入ってからは、八重山の独立性は急速に失われていく。
 薩摩と幕府の琉球処分によって、過酷な重税とくびきにしばられた時代は、明和の大津波などの災害にも苦しめられつつ明治まで続く。
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 オヤケアカハチと同時代には、平久保半島にいた族長的な人物のもとで牛馬を数百頭も飼育していたという記録があるほど、牧場は古くから盛んで、山以外島のほとんどが牧場だったこともあったらしい。牧場でないところには、自生のサトウキビが生えていたが、首里王府からはサトウキビ栽培を禁じられていた八重山では、明治になってからやっと製糖用サトウキビ栽培が始まる。
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 そもそも、欽明推古の時代から始まったという暦が首里の王城で使用されるようになったのは15世紀であり(もっとも、これにはどうして中国から入らなかったのだろうという疑問がある)、鉄や製鉄技術が南西諸島にもたらされたのが鎌倉時代というから本土とはおよそ1世紀もの遅れがあったし、仏教寺院や神社が持ち込まれたのも18世紀になってから…。
 こうしてみると、自ずから本土とはまったく異なった日本が、ここにあったということがわかる。
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 八重山の歴史については、「石垣島だより(25)」 で先史時代を、「石垣島だより(30)」 では「捨て石とマラリアと強制移住は八重山の歴史を知るうえで重要なキーワード」だとして、ごく簡単なまとめをしていた。そこでもふれていた移住は、強制もその他も含めて、八重山の歴史とともにある。本島からの移住も後になると多くなるが、島じまの間での移住は常にあったようだ。それだけ、住み着くのには苦労を要した地域だったということができる。島の北部に目立っている野底岳というとんがり帽子の岩山にはマーペーという娘の悲恋話の伝説があるが、そもそもその恋人たちを引き裂いたのも強制移住だった。
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 捨て石については、明治に清国との交渉過程で八重山を清国に譲渡しようという案があったくらいで、琉球王府の過酷な人頭税などとともに、中央政府からは常にどうでもよいひどい扱いをされ続けてきて、その終わりに戦争マラリアも位置づけられる。
 八重山の人々のやさしさは、島の南西にある冨崎の唐人墓にからむ歴史のひとコマからも想像できるし、彼らがまた“西欧先進国”のしわざによって奴隷船のようなところに詰め込まれた中国人たちに同情するのも、自分たちのおかれてきた境涯ともまったく無関係ではなかったろう。
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 以前からここのことは“トウジンバカ”となにげなく呼んでいたが、バス停の名は“トウジンノハカ”となっていた。また勘ぐりだが、“トウジンバカ”では“唐人馬鹿”になるから「の」を入れたのではあるまいか。“トウジン”というのも、今で言うヘイトスピーチであった時代は、でんでんむしの古い記憶にもあるくらいである。使い道は、よく怒られたりするときに、「このトウジンが!」とか「お前はトウジンじゃのう」とか…。
 もちろん、この地域と中国大陸との関係は、さまざまに深い。
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 本土の人間にとっては、いくら八重山年表を見てもそれだけではなかなか全体像がわかりにくい。それらとあわせて、隙間をもう少し埋めてみようとして、あえてこれまでの記述との重複もありながら、いろいろな観点から眺めてみた。バラバラと書いてきたが、それらをつなぎあわせてみれば、なんとなくこの地域の特殊性も見えてくる。あんまし、整理にはなっていなかったけど…。
 いわゆる「日本歴史」の本とか年表とかを見て、いくらか知っていたとしても、そういう常識とはまったく隔絶している。事実、平安時代も戦国時代もなかったこの地域の歴史は、日本であって日本でなかったような、おまけに沖縄本島の琉球ともまた違う、そんな複雑な感想をこの作業を通じて呼び覚ますのである。
 そこがまた、さむがりやのでんでんむしは、どうしても南のほうに吸い寄せられるという事情とは、まったく別次元で、この地域に興味が増すのである。
 ここはいったいどんなところだろう。そんな興味はずっとあったので、結構長く勤めた会社を辞めてとりあえず自由になったとき、すぐに2週間くらいの計画を立てて、八重山へ出かけて行った。それが20数年も前の八重山初体験で、でんでんむしと八重山の縁は、そこから始まっている。

▼国土地理院 「地理院地図」
24.389609,123.832693
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dendenmushi.gif沖縄地方(2014/04 記)

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タグ:沖縄県
きた!みた!印(23)  コメント(2)  トラックバック(1) 
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コメント 2

かさぶた

こんばんは。とても良い記事だと思います。
本土にいてわからないことが、現地に行くといろいろ見えてくるのでしょうね。
by かさぶた (2016-05-14 23:03) 

dendenmushi

@かさぶた さん、コメントありがとうございます。そうですね。昔からずっと、さまざまにたくさん受けてきた八重山の傷は、かさぶたにはなったけど、傷跡が消えることはなさそうですね。
by dendenmushi (2016-05-15 08:34) 

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