宮良殿内と桃林寺と権現堂からかいまみえるものは八重山の歴史のポイント(48) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]
石垣島を訪れる観光客の多くは、やはり団体ツアー客なのだろうが、近頃では航空券とホテルだけがセットになった個人ツアーというべきようなものを利用する人も多いだろう。でんでんむしも、そういうのをよく利用してきた。
で、そういう個人では、どこへ行くのも自由だが、どこへ行くかを自分で調べるなりして決めなければならない。石垣市の市街地・住宅地のなかにある宮良殿内や桃林寺・権現堂の周辺では、カメラと地図のようなものを手にした中高年の夫婦や一人旅の人をよく見かける。
観光バスは通り過ぎるが、やはり個人でぶらぶらするとなると、こんなとこしかないんだ。いやいや、「こんなとこしか」というのは誤解を招く。これらは、その気になってみると、なかなか八重山の歴史上重要なポイントでもあるので、素通りはしないほうがよいのである。
宮良殿内は、でんでんむしも最初の石垣訪問時に一番に訪れた場所であった。桟橋から北へ向かう桟橋通りを少し上って、路地を左に入ったところにあるそこは、まずどう読むのかで観光客を悩ませる。だいたい八重山ではそういうことが多いが、地元の呼び方があるうえにそのほかの読み方が何通りかあったりする。「みやらどぅんち」がまあ一般的な呼び方といえるかもしれないが、「めーやらどぅぬじい」というのもあるし、200円払って中に入るとくれる紙には「めーらどぅぬず」としてある。
このA4二つ折りの紙が、なかなかバカにならない内容のある資料なので、これさえちゃんと読んでおけば、こんな通りすがりの素人のよけいな解説などいらないのである。
きれいな石垣に開いた門をくぐってピーフンにあたり、左に曲がって行くと、以前はいつも縁先の隅におじいさんがひとり、小さな台を前にして座っていたものだが、まだ若めのおじさんに変わっている。名物じいさんも寄る年波で引退を余儀なくされたらしい。右手に入っていくと、琉球石灰岩を使いソテツやヤシまである南方的枯山水の庭がある。枯山水そのものは日本伝統の流れであろう。
この庭は国の名勝で、建物は1956(昭和31)年に琉球政府が重要文化財に指定し、1972(昭和47)年の本土復帰に伴って国の重要文化財になっている。
「殿内」とは、首里王府時代に設けられた行政区(間切)の頭職(かしらしょく)の私邸で、この様式が首里の士族階級の屋敷の構えや様式を踏襲しているというので重文になっている。ところが、士族の屋敷も階級によって規格が定めてあったのだが、この頭職の家は首里王都の士族にのみ認められていた建材、間取り、赤瓦葺きなどの様式そのままに建てられた。王府からは分不相応な規則違反であるからと、建て替えの命令を何度も受けていたが、これに応じなかった。
そうこうするうちに王府自体が危うくなりかけた、1875(明治8)年頃に強力な圧力があってやっと瓦葺きを茅葺きに変えたが、王府解体後にまた赤瓦に戻すなど、なかなかしぶとくがんばった。いわれるまで気が付かなかったが、この赤い屋根の勾配は、確かに少し急なようである。それも、茅葺きの上に瓦屋根を載せたからからだという。
ところが、首里の王城も士族屋敷もすべてが戦火で灰燼に帰してしまったとあって、琉球王朝時代の士族屋敷の様式をそのまま今に伝えるものは、本島にはなく八重山のここだけになってしまった。皮肉にも中央の指示に反して辺境ががんばったおかげである。それが重文の意味というのがおもしろい。
桃林寺の建物のほうは比較的新しいものらしいが、津波で流されたり再建されたり修復されたりしてきた権現堂と桃林寺の仁王像は、やはり重要文化財になっている。
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桃林寺と権現堂が意味するものは、いわば寺社における琉球処分の結果、八重山に初めて誕生したお寺と神社ということである。1614(慶長19)年に、実質的に琉球を間接支配する態勢に持ち込んでいた薩摩藩は、尚寧王に寺社の建立を“進言”した、と教育委員会の説明は言うが、この頃薩摩が琉球に要求することは、すべて“強要”だったのではないか。それが、琉球本島のみならず、八重山にまで及んでいた。
つまりは、薩摩が強要してこの寺社をつくらせるまでは、八重山にはお寺も神社もなかった、ということなのである。
だって、琉球には独自の神様とそれを支えるシステムが、ちゃんと存在していたのだから、お寺も神社も必要なかったはずなのだ…。
▼国土地理院 「地理院地図」
24.341217, 124.159844
沖縄地方(2014/04 記)
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