国際用語になっている“TSUNAMI”の力を伝える石垣島大浜の大津波石(47) (石垣島だより シーズン2) [石垣島だより]

八重山で甚大な被害を出した明和の大津波については、遭難者慰霊碑を探しに行ったときの項目(石垣島だより 26)で書いていた。1771(明和8)年明和大地震の大津波が襲った石垣島では、壊滅的な大被害を受けたことは、そこで書いているとおりだが、遭難者慰霊碑の場所は、宮良の集落の北1.5キロにあたる、標高60メートルの畑の中の丘の上にあった。そのとき、津波石もあるとは聞いていた。だが、標高60メートルの慰霊碑のそばにごろごろとしている石は、津波石ではあるまい。その場所の特定と確認ができていなかった。
そこで、今回はその津波石を改めて探しに行った。津波石とは、津波によって動かされ運ばれてきた石である。小石も当然運ばれてきただろうが、よほど大きなものでないとわざにそうは呼ばないだろう。石垣島には、そういうものがあちらこちらにいくつもあるらしいが、どこか代表的なやつを探してみればよかろう。
その代表的なのが、大浜にあるらしい。

石垣島の南東部では、市街地と白保の間で大きく凹んだ湾がある。これが宮良湾で、それを挟んで東に宮良、西に大浜の集落がある。
宮良湾にはヒルギ林の宮良川が流れ込み、フルストバル遺跡(石垣島だより 23)の丘 からも珊瑚礁が広がる浅い海面が見渡される。そこから南の海岸近くに降りてきたところが大浜で、ここにはオヤケアカハチの像や御嶽などがあることも前に(石垣島だより 21)で書いていた。
大浜の津波石は、そのすぐ前にあった。
これまで、その前を通っていたのに、気がつかなかった。情報がインプットされていなかったので、立て札でも立っていなければ見過ごしてしまう。そして、そこには立て札も案内もなかった。
大浜小学校の南東に、デーンとある津波石は、木が大きく茂っていて、その根が岩の壁を抱え込むようにして伸びている。何メートルあるのか、その高さも木が覆っていてよくわからないほどだ。その周囲をめぐると、数十歩も必要である。

津波石の証拠としては、その周辺の土壌地質との連続性がないことがあるだろう。よそから運ばれてきた異質の石が、そこに根を生やしているのではなく浮いている必要がある。ここの石は、まさしく浮いている。
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いったいどこから、何メートルくらい運ばれてきたのだろうか。大浜の海岸付近の珊瑚礁から切り離され、移動してきたものだろうという推測はできるが、海岸からこの場所までは、10メートルもの上り坂である。
われわれは簡単に、“津波が運んできた”といい、“あっそう”と思うけれど、それに必要な膨大な力とエネルギーを考えてみると、それもにわかには信じがたくなるほどだ。
津波といえば、小学校の教科書にあった、稲むらに火をつけて村人を高台に集めて救った庄屋の話で、初めてそれを理解したくらいである。そのときには、それを紹介したのが小泉八雲であったことなどは、知らずにいた。
その話で、地震のあとに海の水が急速に沖に引き下がっていき、やがて大きな壁となって集落や田畑の上から覆いかぶさってきて、なにもかも根こそぎ持って行ってしまう…そういう状況は頭では理解したつもりでも、それがどういうものかは、日常生活からはやはり遠くにして過ごしてきた。“TSUNAMI”が国際用語として外国で通用していると聞いても、それは変わらなかった。
それを一変させたのは、3.11以降に知ることができた、さまざまな情報による。チリ地震津波や奥尻島など、すでに体験していた人を除けば、日本人のほとんどがまず似たようなものだったろう。直接被災をこうむった人々の恐怖と悲しみと無念さも、その何十分の一くらいは、ともにすることもできよう。

宮良湾では、湾内のあちこちに、岩がばらまかれている。これらも津波石のようにみえる。おそらく、そうだろう。
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