1072 嘉佐崎・野底崎=八重山郡竹富町古見(沖縄県)“コメづくりをはじめたところが古見”という柳田説がある [岬めぐり]
西表島で2014年「やまねこマラソン」が行なわれたのは、2月8日の土曜日だった。ちょうど運が悪いことに、この日から北寄りの風が強まり、数日間連続で上原航路は欠航になった。マラソン自体は中止にはならず、朝早くから石垣港の大原航路の桟橋には、長い行列ができた。
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最近の一般人が誰でも走れる市民マラソン人気は、大変なものだと改めて思わせたが、大原港でもみんな行儀よく並んで、順番にバスに乗り換えていた。
上原航路が欠航の場合、船会社は白浜までの臨時バス便を出しているのだが、マラソンの日はバスを何台も出して次々にスタート地点の上原まで運んでいた。あとで思ったのだが、こんなバスは西表島にはそもそもないだろうに…。それとも、あったのか。石垣から運ぶにしても、いつの間に運んだのだろう。
だが、それでもさばききれないと、でんでんむしが乗り込んで出発を待っていた路線バスにまで、マラソン人も乗せることにしたらしい。
こういう、突発的な異常事態の際の指揮をする人の、とっさの判断が重要なことはいうまでもないが、この判断は?であろう。おんぼろ路線バスは座席数が少ない。それ以上詰め込めば、立ったまま一時間もバスに揺られていかなければならず、リクライニングの貸切バスにゆったりと座って行った人とは、えらいハンデがつくではないか。まあ、そんなに勝負を重視する人ばかりではないので、それでもいいのだろう。
そんなことを心配しながら、なりゆきを見ていたが、乗る人もさして疑問には思っていないようで、言われたままに詰め込まれている。
結局、超満員にまで詰め込んで、路線バスがかなり遅れて大原を出る頃には、ほらごらん折り返してきた空の貸切バスが二台戻ってきたではないか。
そんな超満員状態で大原を出る前には、まだ陽がさしていたのに、バスが仲間川を渡り、前良(まいら)川・後良(しいら)川のマングローブ地帯を過ぎ、なおも北へ向かう頃には、空はどんよりと厚い雲に覆われ、あやしい空模様になっていた。
この前良川・後良川を走るとき、東の海側に見えているのが嘉佐崎である。この岬は、東に向かい合う小浜島との間のヨナラ水道の南口に当たる。
マンタが通る水道として、たくさんの写真が撮られているので、ダイビングとかに縁のないわれわれでも、その名前は知っている。
前良川の河口付近には、サキシマスオウノキの群落がある。道路近くで見られる唯一の場所なのだが、そこには最初に西表に来たときに、民宿で自転車を借りててこてこ行ったものだ。バスから見る道路脇の景色は、その頃とはずいぶん変わっているような気がしたが、なにが変わっているのかよくわからない。
国土地理院の地理院地図にはその表記がないが、嘉佐崎の北1.3キロのところに、小さな山がぽこんと取り残されたような岬がある。地元のガイドパンフには野底崎という名前も明記されているので、ついでに記録しておこう。
この野底崎は、前良川・後良川からは嘉佐崎の陰になるので見えないが、ツアーの広告に必ず出てくる観光名所の由布島のほうから見ると、その南に頭を出している。
路線バスは、県道から外れて由布島水牛車乗り場まで寄って行く。ここでは数人の人が降り、水牛車乗り場はやはり観光客の姿が多い。
こちらは何度も西表島に来ていても、有名な水牛車には一度も乗ったことがない。由布島に岬でもあるというならば別だが、今回も水牛車は乗らないで、そのままバスで野原崎まで行く。
由布島の付近では、曇天の下で水田が光っていた。その水田で、また柳田国男の書いていたことを思い出す。彼は、日本に稲作が伝わった場所には「古見」という名があると言うのだ。
そして、ここはまさしくその「古見」なのである。
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古見の名がつく地域は、ここだけではなくほかにもあるようだが、西表島に現在伝わる古見の範囲は、仲間崎の北から野原崎の南にわたる島の南東海岸のほとんどを占める。その西は、古見岳からさらに西、島の中央部の密林に分け入って広がるが、これはまあこの際あまり関係がないだろう。
島の南東部は、比較的海岸線と山の間が広く、与那良川や相良川、前良川・後良川などの川がある。水田に欠かせない、水と平地の両方が揃っている。
目の前の海は、島と礁湖が広がっているおかげで、海もあまりひどくは荒れないこの地域が、柳田の言う米作伝来発祥地のひとつであったとしても、驚くことでもなく、そうかという感じもする。
嘉佐崎が抱え込んでいる、相良川と後良川が流れこむ入江の小島には、平西(ぴにし)貝塚という遺跡もあるらしい。
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