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1057 堂ヶ崎=長崎市深堀町2丁目(長崎県)長崎湾こそが日本の造船重工業の発祥の地なのだった [岬めぐり]

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 長崎の深堀の名は、この地の地頭であった深堀氏の名からついた地名である。その深堀氏は、もともと現在の千葉県いすみ市にある深堀を地盤としていて、そこから自分も深堀と名乗るようになった。その深堀氏は、もとは神奈川県の三浦半島によって鎌倉時代に活躍した三浦氏の流れを汲む一党であった…。(「1053 呼崎」の項参照)
 現在の長崎市深堀町は、さほどに広いとも言えない。北の端が埋立地の中間にあたる長崎造船所の岸壁から、おそらく深堀氏の城があったからついた名か城山(標高350メートル)の山頂まで2.2キロほど。東は末広町の長崎鶴洋高校から、かつては呼崎と呼ばれていたはずの深堀漁港の突端まで1.7キロほど。
 その半分近くが山で、古くからの集落は北の山裾から海に向かうわずかしかなかったが、これが埋立で北へも広がり、そして1968(昭和43)年の香焼と深堀の間がつながって、その新たな陸地の半分も深堀となった。
 その埋立地のほとんどは、造船所、研究所、機工など三菱重工関連で占めている。
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 堂ヶ崎は、深堀集落の中央で深く切れ込んだ入江(埋立によって細くでこぼこになった)の端である。
 そのすぐ隣からは、1968年の埋立地が続いているので、堂ヶ崎自体はそれ以前の小規模海岸埋立のときに、すでに実質的に岬ではなくなっていたものだろう。
 ここから1キロ南西にあった呼崎も、深堀港の工事で消えてしまったと思われるが、この堂ヶ崎はその名の表記も地図から消えずに残っているのはどうしてだろう。こういう例も、実はめずらしくはないのだが…。
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 江川で国道499号線から分かれて香焼へ向かう県道29号線が、入江を越えて大きく左折する角は、ちょうど工場などの建物が切れて海が見える。
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 香焼から長崎市街へ帰る道では、深堀港のほうに近いバス停のところからは、ほぼ真っすぐに広い道が東へ向かうが、この道の左側が研究所と造船所の敷地で、右側が埋立以前の深堀の町が続き、道が大きく右折するところがそのポイント。
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 この海は、長崎湾の一部で、ちょうどここがそのいちばん南の端ということになる。香焼町や土井首町の埋立地に挟まれるようにして奥まっているが、かろうじてここまでつながってきた。
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 コンビニの駐車場の向こうに、こんもりとした植え込みのようなところもあるが、どうやらそのあたりが堂ヶ崎なのか。小山のようにみえるのは、湾内に浮かぶ野牛(やぎ)島で、その遠くに丸いタンクをいくつか載せたタンカーが接岸しているところが、香焼の長崎造船所の岸壁になる。
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 長崎における造船所の歴史は古いが、それはまず鎔鉄所の設立から始まった。長崎海軍伝習所の永井取締の建議によって、長崎港西岸の飽の浦に長崎鎔鉄所が落成したのは、1861(文久元)年のことであった。オランダ技師の指導でレンガを焼くところから始めてできたのは、わが国初の本格的な洋式工場であった。この鎔鉄所が、幕府直営の長崎製鉄所から明治維新で官営長崎製鉄所となり、1871(明治4)年に長崎造船所と改称する。これが長崎造船所と日本の重工業の起源となった。
 1884(明治17)年から政府の民間委託の方針を受けて三菱の経営となり、翌年には長崎造船所建造第一号の鉄製汽船「夕顔丸」を造っている。
 ちなみに、八幡で官営製鉄所が操業を始めたのは、1901(明治34)年のことである。
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 堂ヶ崎から、北北東に向かって線を引くと、中間点女神大橋を経て長崎港の西岸にある立神に至る。そこまで、6.8キロ。
 そこが飽の浦と呼ばれたところで、造船と重工業の発祥地として、三菱重工長崎造船所では創業時のレンガ造り建物を保存した史料館を設け、自らの歴史を記録しているから、さすが大企業の余裕である。

▼国土地理院 「地理院地図」
32.687885, 129.82819
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dendenmushi.gif九州地方(2013/11/04訪問)

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タグ:歴史 長崎県
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