1045 大瀬鼻=長崎市宮崎町(長崎県)池をつくり池を守る岬から南西に2.3キロ離れた山の上にある木場 [岬めぐり]
バスを「川原(かわら)公園前」で降りて、山の下を小学校の横を抜けるまではさほではなかった風雨が、海岸に近づくと急に強くなる。
雨も横殴りになって、折りたたみの傘をさしてその下でデジカメを構え、景色も見えて雨も吹き込まない空間をつくるのにも苦労する。
この浜の南に、飛び出ているのが大瀬鼻で、遠目には丸い穏やかな岬だが、地図によるとこの向こう側(南面)は、岬の半分が削り取られたような断崖になっている。
大瀬鼻の北に延びる公園一帯の海岸は、夏場は海水浴場として賑わうのだろう。きれいな砂浜には、もちろん人の影もなく、大瀬鼻と蛭子崎の間、直線では900メートルの間に広がる海は鉛色に沈んでいる。砂浜なので漁港もできず、蛭子崎寄りの北側半分は住宅地、大瀬鼻側の南半分は川原大池公園となっている。
公園の奥には、幅数百メートルという大池が広がっていて、なかなか雨のなかでもいい雰囲気を出している。池は南東の端で海とつながっている。
この池も、北海道は道東シリーズであったような、侵入していた海が後退するときに“逃げ遅れた?”、あるいは“帰りそびれた?”海ということになるのだろうか。いや、そうではなく、もっと単純に、ここは宮崎川の堆積土砂が、東からの波に押されて細い陸地をつくり、大池を閉じ込めてしまったのか。地図を見ると、どうやら後者のほうだろうと思われる。
当然のごとく、神社がある。浜から古い頑丈そうなつくりの石鳥居が湖畔の神社まで導くが、どうやら池そのものがご神体(あるいは神の住所)であるらしい。
長崎市宮崎町は、旧三和町の南の端にあたる。蛭子崎の下を流れる宮崎川から、南西方向に深く山に入って、標高288メートルの熊ノ岳をすっぽり取り込み、さらに南西に遠く続く325メートルの二ノ岳まで、幅2キロ前後で3.5キロもある。
そのほとんどは山地だが、三和町になる前は宮崎名という川原村の一部だった。昔も今もこの地域の中心地であった宮崎町は、いわば広い地域のいちばん北の端っこに寄っていて、そのほかにも二ノ岳の東で海寄りだが山の上の木場と熊ノ岳の西にある徳道(とくのどう)という集落がある。木場は「木場」だと思うが未確認。実は、この地名は長崎県にはかなり多いように感じられる。
東京にも木場があるが、その意味するところはだいぶ違うのではないか。
川原の木場(大瀬鼻からは南西に2.3キロ)から境界を越えてすぐ南には、脇岬の木場もあるし、その他あちこちにあるようだ。だが、少なくとも川原木場は、標高100〜200メートルの山の上や斜面に展開する集落が固まっていて、いったいどういう場所だろうと思わせる。航空写真を頼ってみたが、畑やビニールハウスのようなものが目立つくらいで、やはりよくわからない。わかったのは、二ノ岳の東麓が広くゴルフ場に蚕食されていることだ。
残念ながら、ZENRINソースの住宅地図Mapionにも、それとなくグニョグニョと道らしきものが描かれているのと、34号線のバス停が示してあるだけなので、なにもわからない。
ほんとうは、川原木場といえばそこらがどういうところなのか長崎では常識で、誰でも知っていることなのかもしれない。だが、こちらはよそから来てちょこっと突っついてみるだけ。少なくともそのレベルでは、なにも情報もなくわからない、ということだ。
先にも、ちょっとだけふれた伊能忠敬の測量隊の記録だが、これも実に簡潔な手控え(メモ)のようなものに過ぎない。だから、これからもおもしろい話はいっさい出てこない。まあ、そういった感じなので、資料としてはあまり役に立たないうえ、現在の地図にはない岬の名があったり、池が二つに増えたりしていて、よけい始末に困るだけだ。
しかし、そのなかに「御料所高木支配の川原村字木場」と書いているのは、ここがそんなところだったのかを知る重要な手がかりにはなりそうだ。この付近も、佐賀藩領との接点であったらしいし、どうやら明治まで尾を引きそうだ。
いえいえ、ちょっとここでも木場の追究はいたしかねます故。
▼国土地理院 「地理院地図」
32.621448, 129.837755
九州地方(2013/11/03訪問)
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