1042 メボシ崎=長崎市為石町(長崎県)その昔はこういう名前ではなく「二本瀬崎」と呼んだらしい [岬めぐり]
まあ、このへんかなとメボシをつけたメボシ崎。遠くの二ッ岳崎のずっと手前にあって、年崎と並んで漁港のくぼみをつくっている。だが、このメボシ崎から湾内にかけては、地図で見ると海岸沿いに長い岩礁地帯を伴っているのがわかる。
なるほど! この岩礁の帯が二本あるように見えるから二本瀬崎なのか!
一人合点しているのは、伊能忠敬の『測量日記』によると、ここは「二本瀬崎」という名前になっていたからである。
伊能測量隊がこの付近を測量したのは、1813(文化10)年で、この頃と今とでは、岬の名前が変わることもあったとしてもおかしくはない。
名前の由来もさることながら、ここもそもそもまったく地域の情報がないところだ。無理矢理あれこれほじくってみると…。
前項では、茂木から千々町の二ッ岳崎まで、集落も少なく岬もないと書いていたのだが、ここを南から北へ歩いた伊能隊の記録ではこのブログの順とは逆になるが、茂木の赤鼻崎の南側の出っ張りに汐生崎、大崎町の菜切崎、千々名では平瀬崎が、それぞれ「字」をつけて記されている。
また、字地名の末尾には千々名、藤田尾名と「名」がついているうえ、「佐嘉領為石村」、「茂木村枝藤田尾名」という表記もあった。
メボシ崎のあるところは、長崎市為石町(ためしまち)である。少なくとも文化文政の頃にはここは佐賀藩の領地だった。
現在、長崎市域の南部にあたるこの地域では、けっこう町名が複雑に細切れに入り乱れているので、それが気になる。
1955(昭和30)年に蚊焼村、川原村、為石村の三村が合併して、長崎県西彼杵郡三和町(さんわちょう)を名乗った。さんわちょう・さんわまち・みわちょう・みつわちょうと、いくつかに読めるこの名前の自治体は、全国に9つもあったが、そのいずれもが合併で消えている。(ほかに、字名、地名として残るものはある。)
もちろん、この長崎でも例外ではなく、2005(平成17)年に同じ西彼杵郡の香焼町、伊王島町、高島町、野母崎町、外海町とともに長崎市に編入されている。今さらだが、西彼杵郡の範囲は長崎半島の多くを含んでいたわけで、それが長与町と時津町以外は全部長崎市になってしまったことになる。
長崎市になってからも旧町名を引き継いだので、為石町、蚊焼町、布巻町、川原町、宮崎町、藤田尾町という名が残り、80年代に新興の団地が造成で開かれた結果、晴海台町と椿が丘町が旧三和町から独立して新設され現在にその名を伝えている。
このうち、藤田尾町(とうだおまち)については、1944(昭和19)年に為石村藤田尾名となる前は、旧茂木町だった。
前に、諫早市になった多良見町のところで、大に飲み込まれる小のささやかな歴史も、もはや大のなかでは見向きもされず、消えてしまうということがあるのではないかという危惧をしていた。(この事例としてあげていた伊切木の遺跡については、諫早市もまったく無視しているわけではない。)
長崎市の半島のほぼ全域を吸収する合併も、平成の大合併のもたらしたものだが、通りすがりの眼で見れば、やはり旧町村の情報については、長崎市のホームページではまったくといっていいほどなにもない。
「観光案内」も、よくあるように観光というものをきわめて限定的にしか捉えていないようだし、長崎ほどの有名観光地になるとかえって扱いに困るのかもしれない。
そのなかの一番下に「合併地区の魅力」という項目があったので、なるほどこれかと見れば、そこにはただひとつ、「琴海地区」の記事一覧として『琴湖のほとりのまち「きんかい」』というページのバナーが導くようになっているだけだった。
為石町や旧三和地区の情報が、なにかないかと探して、例によって役に立たないページをかきわけているうちに、“長崎市から三和町奪還計画を考える”などと書いている人がいることもわかった。
なんだか、そういう気持ちになる人がいても、なんらおかしくはないのだろう。
▼国土地理院 「地理院地図」
32.638042, 129.84662
九州地方(2013/11/03訪問)
何時も、行った気分になります、ありがとうです。
by えんや (2013-12-10 15:33)
@えんや さん、こちらこそいつも見ていただいてありがとうございます。
書くほうも、多少は気にはしているのですが、もともと旅行ガイドのつもりではないし、個人的指向に走ります。
ほー、こんなところがあるのかと、イメージをふくらませながら見ていただくと充分行った気分くらいには…。
by dendenmushi (2013-12-12 05:53)