1034 堂崎ノ鼻・馬込ノ鼻・橋詰ノ鼻=西彼杵郡長与町岡郷・斉藤郷(長崎県)歴史の波風も受けずにこれたのも地理的な条件故か [岬めぐり]

道路や鉄道のルートからこの地域に迫ってみたのに続いて、今度はその支配体制について振り返ってみる。そこで改めて認識を新たにしたのは、大村藩の領地の範囲とその存続の仕方についてである。
まずその範囲。旧大村藩の領地は彼杵郡(そのぎぐん・そのきのこおり)一帯で、北は佐世保市の南部から大村湾の東西(大村市・西海市など)を抱えて、長崎半島の大部分(長与町・時津町・長崎市のほぼ全域)に及ぶ。そのなかには、現在は諫早市の一部となっている旧多良見町も含まれていた。
確かに、波も静かな大村湾は、その海が境界になることはなく、逆にその海こそが周辺の地域を結びつけてきたと考えられる。
大村藩の居城が、長く玖島崎にあったことを考えると、そこから見えていた旧多良見町も、佐賀藩(諫早はその一部)というよりも大村藩というほうが自然だったと言ってよいだろう。
藤原純友の一派であったともいう大村藩藩主の大村氏は、鎌倉時代にはこの地で勢力を得ており、以来連綿として1871(明治4)年の廃藩置県で大村県となるまで、800年もの長きにわたって領主であり続けた。長崎県になってからも華族・伯爵に列するという、常に時代の支配者の主流から外れないその秘訣は、いったいなんだったのだろう、と思わせる。
戦国時代には長崎をその領地としていたが、その後豊臣政権・江戸幕府と続く中央政権の天領として取りあげられ、そのメリットを失なってしまうが、キリシタン大名ながら秀吉の九州征伐に従って領地を安堵され、関ヶ原では東軍に属して大村藩を維持する。
大名の取りつぶしや移封転封が相次いだ徳川政権下で、一貫して当初の所領を守った例としても希有のことでもあるが、幾度かの危機はあった。
当初は藩主と庶家の領地が逆転していたのを強制的に藩主が没収して財政危機を脱し、領地から多数の隠れキリシタンが発覚した事件では機敏に中央に対応し、藩論が佐幕と尊皇に二分された幕末には、これまたうまく尊皇倒幕へと統一して倒幕の中枢といわれる列藩の一つに食い込んでいる。
西彼杵郡長与町は、長くこうした大村藩の一部ではあったが、歴史上に名を残すような事件事績には遭遇することもなかった。

長与町のホームページその他からも、それらを見つけ出すことは、極めて困難である。ただ、町の北東端にあたる堂崎ノ鼻付近では、旧石器時代の石器が出土しているらしいこと、琴ノ尾岳には烽火台跡があること、その他若干の縄文から中世への遺跡が一覧に示されているくらいである。長与町を代表する自然として、町では堂崎ノ鼻と琴ノ尾岳をあげているくらいである。

今では諫早市の一部となった多良見と長与の境は、二見瀬鼻と堂崎ノ鼻の間の入江の奥に引かれているので、先の部分が高度を下げて飛び出ている堂崎ノ鼻は、まるまる長与町になる。
長崎の異変をいち早く大村に伝えるための烽火台(あまり実用にはならなかった)跡があったという琴ノ尾岳(451メートル)は多良見町との境界の山だが、岬も山も、また入江の奥にある長与の町もただぼんやりとしている。

長与港がある入江の東西には、馬込ノ鼻と橋詰ノ鼻がある。入江の西は崎野ノ鼻だが、この細く長い岬の尾根は、西隣の西彼杵郡時津町と半分コに分けている。長与町としては、そのため西側についてはあまり触れていないが、実際にこちら側は山ばかりで目立ったものがない。
長与港は連絡船もあったように記憶していたが、町のアクセスルートにはないので、もはや海路はなくなっているのか。

港から長与川を遡ると、役場も駅もある町の中心部に至る。長崎本線(北回り=そういう呼び方は地元ではしていないようだが、よそ者にはそのほうがわかりやすい)の長与駅のあたりを通り抜けながら、車窓に写る景色から感じた感想は、高い山の上まで団地が埋め尽くしていることだった。

その南部のまなび野では、すぐ南の長崎市の団地とつながっている。その名前が「女の都」。読みは「めのと」っていうんだけど、それにしても“よくつけたね”、“命名者の顔が見たい”というような名前だ。女性の平家の落人が多かったというのだが、“長崎市立女の都小学校”なんで、誰も文句を言わないのだろうか。ま、それにもいろいろあるのだろうけどね。
確かそういう題名の フェデリコ・フェリーニの映画があったような気がするが、“女の都行き”なんて行き先表示を堂々掲げたバスがたくさん走っているのを見ると、なぜかドキッとしてしまうのは、よそ者だけなのか。

長崎市のことはおいといて、そういえば、長与町では現在でも、まなび野(この名も女の都の隣では影が薄い)を除いてそれ以外の町名にはすべて「郷」をつけている。堂崎ノ鼻と馬込ノ鼻は岡郷、橋詰ノ鼻は斉藤郷である。そして、やはりここでもミカンなどの果物の栽培が盛んだというが、人口42,495人(平成25年)の町民の35%が長崎市へ通う長崎のベッドタウンになっている。長与町も昼間は「女の都」になってしまうのか。(あ、こんなこというとどこかから怒られてしまうのかなぁ。)
▼国土地理院 「地理院地図」(Web.NEXT)
32.879803, 129.897439 32.860292, 129.871642 32.85438, 129.858252




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