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1030 梅崎=諫早市多良見町野副(長崎県)鉄道も道路も街道もなぜにそんなところを通っているかを考えるとおもしろい [岬めぐり]

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 旧大草村、そしてさらにその後の旧多良見町の時代までは、東園名とか西園名とか野副名とか呼んでいた地域の一帯は、北と西と南を300メートルくらいのぽこぽこ山に囲まれている。東側だけ大村湾に向いて開けているから、盆地ではないが、周囲の山から流れ出す水流が幾筋かあり、それが入江の大半を埋めるに及んで、平地と集落ができたものだろう。
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 ここへやってくるには、比較的高くはないとはいえ、峠を越えてこなければならない。海路も考えられるが、ここには港らしいところさえないようにみえる。
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 東の白岩鼻と北の梅崎の間に挟まれた集落は、雨の中に静まりかえっている。ここで、また失敗に気付いてしまった。小さな尾根を開削してそこにホームを設けた東園(ひがしその)駅から、西へ延びているJR長崎本線の単線路は、丸く弧を描きながら梅崎を回り込んでいるのだが、地図で見るとその鉄路は海の中道を通っているようにみえる。
 これは地図が古いからかなとMapionも見てみたが、やはり線路の内側に水域が残っている。失敗は、これをまったく見逃していたことだ。
 岬のほうにばかり気を取られていたことと、急に予定を繰り上げたことで、まったく心の準備がなっていなかったのが原因だ。そのため、東園駅で1時間も雨宿りしながら、頭隠して尻隠さずのアマガエルと遊んだり(このハッパがうちの近所にもはびこっているが名前がわからない)していたのに、集落のほうを歩いてみるという発想が、まったくわかなかったのは、雨のせいばかりではない。umesaki09.jpg
 しかし、地理院地図の写真で見ると、内側の水域は乾燥化が進んでいて、ほとんど陸地化しつつあることがわかる。それと、北側と南側には小規模ながら船溜まりもある。いずれにしろ、線路を越えて出入りできる船は小さなものに限られる。
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 JRでは現在でも、この湾岸の北回り路線を「本線」と呼んでいるのだが、鳥栖〜早岐間と長与〜長崎間が開業したのは1897(明治30)年。当時はまだ九州鉄道の路線だった。長崎本線は、そもそもは現在の佐世保線・大村線のルートで建設が進められていたのだ。
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 多良見の湾岸をここを汽車が走るようになったのは、1898(明治31)年とかなり早くのことで、このときに諫早駅、喜々津駅、大草駅が新設されている。元々は、やはりこっちが本線だったのだ。国鉄になって東園には信号場が新設され、1966(昭和41)年にはそれが駅に昇格したようだ。
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 前々項でも触れたように、鉄道では長崎〜諫早間をもっと短い距離と時間で走る南回りの肥前古賀経由の線がメインに切り替わっている。この線は、諫早市の喜々津駅と長崎市の浦上駅の間は、ほとんどがトンネルというちょっと変わった線である。というか、とにかく合理性を優先したのであろう。この線(喜々津〜市布〜浦上)は、1972(昭和47)年に開業している。それと同時に、特急や急行などを新線経由にしている。
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 現在の技術をもってすれば、別に線路を引いて列車を走らせるのに、不可能な場所はもうない…のかもしれない。昔のように平地を選んで海岸線を迂回しながら走る必要はない。
 喜々津から長崎に向かうとき、この新線に乗って驚いた。トンネルとトンネルの間にぽっかりと空間が開けて、突然現れた駅の名が「うつつがわ(現川)」。山の中に霧のような雨が立ちこめる幻想的な景色は、まさしく夢かうつつか…。
 道路も、今ではこの大村湾と長崎市中心部の間には、山などもろともせず高速道路が走っている。
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 だが、しかし…。あまり急がず、もう少し道路とルートから長崎をみておきたい。
 長崎は、いわば大きな幹線からは外れていて、しかも行き止まりという地形にある。けれども、長崎の南に向いて細長く開いた入江の奥に設けられた出島が、日本で唯一外国に向かって開かれた出窓であり、“ここだけドア”だった時代が長く続いた。そのドアを抜けられるのは人間以外の物に限られたけれども。
 当然、東の日本各地から長崎へやってくる。また、長崎から帰っていく。その往来に使われたのが、長崎街道であった。小倉を起点とする長崎街道は、福岡県筑紫野市や佐賀県神埼市、佐賀県武雄市などを経て彼杵(そのぎ)宿から大村湾東岸を下って、諫早は永昌(えいしょう)宿に至る。その場所は未確認だけども、次の宿場が矢上宿、日見宿そして終点の長崎となる。矢上と日見は、いずれも長崎市内の東部である。とくに日見は峠越えの難所だったらしいが、今ではトンネルとバイパスが難なく越えてしまう。
 そこから下ると、もう蛍茶屋の市電(路面電車)の停留所が現れる。
 長崎シリーズの初めに、“長崎も「崎」だったね”と書いていたら、地元民のbrassy さんから、こんなコメントをいただいた。
 
 長崎市の「長崎」はお察しのとおり、江戸の頃まで岬でした。長崎駅東側から県庁方向に向かって>の形に突き出していて、その周辺(出島・浜の町など)は全て埋め立てです。←というのを郷土史で学びました。

 現在の地図では出島も観光施設になって、市街地に取り込まれているが、長崎本線が長崎駅から長崎港駅まで延伸されたのは1930(昭和5)年で、廃止されたのは1987(昭和62)年であった。
 ウィキペディアには、1727年にロンドンで刊行されていたケンペルの『日本誌』に収録されている元禄頃の長崎街道の図がついていた。これがなかなか興味深いので、ここに今回の岬めぐりに関連するその部分を紹介しておこう。
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▼国土地理院 「地理院地図」(Web.NEXT)
32.854703, 129.957976
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dendenmushi.gif九州地方(2013/11/03訪問)

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タグ:長崎県
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